鈴木道彦「越境の時 一九六〇年代と在日 (集英社新書)」

プルーストの「失われた時を求めて」という有名な小説を訳したことで有名なフランス文学者である著者が、1960年代、在日朝鮮人の起こした事件に衝撃を受け、それを支援したときの回想録。
なぜこの本を手に取ったのかいまだによく分からない。でも、読んでみてよかった。
だいたい、自分くらいの年齢の人間には、この本に書かれた時代の在日を取り巻く状況や、時代の空気もわからない。もちろん、書かれている事件についても知らない。せいぜい井筒監督の『パッチギ!』を見て、その明るいトーンで描かれた物語の底にある悲しみと暗さを感じ取るくらいのものだった。その映画とて、この著者から見ると、『そこに流れている明るい空気は信じられないくらいだった(p245)』と感じられるらしい。『パッチギ!』の明るさは僕には監督なりの、我々若い世代への希望とか、それでも感じ取られる暗さを分かって欲しいという気持ちなりがあるように思っていたので、この著者の感想は正直よくわからない。しかしここには、1929年生まれで、その時代に物を考え発言するような年齢であり、この本に書かれた事件を通して深く時代と切り結んでいた著者の、深い実感があるように思えた。
小松川事件と金嬉老事件という、この本で書かれている二つの事件、そしてベトナム戦争の脱走兵の救援活動など、著者の活動の動機のほとんどは、深い共感に貫かれている。著者は書く。

人はどんなに悲惨な状況を聞かされても、一向に心の動かない場合がある。(p66)

この言葉に、違う!と言える人はそういないだろう。たくさんの悲惨なニュースが流れる中、僕たちは、心を動かさないことで普通に暮らせているとも言えるのだから。逆に、当事者の悲しみなどがわかりもしないのに深くコミットするのもおかしいのではないかと思うところもあるだろう。
この本で書かれる在日の問題もその一つかもしれない。この本で書かれているように、そして『パッチギ!』でも描かれているように、当事者である日本人が目をつぶってしまっているような問題が未だに深い形で残っているのである。しかし、それはどうにかせねば、などと思ったとして、実際に苦しみを抱えている人々からすると、「知りもしないくせに問題に手軽に触れないでくれ」という思いがあるだろうし、そこを越えて問題にコミットするのは並大抵のことではないだろう。そこには、大きな境界がある。
著者は、この並大抵でないことを乗り越えようとした。『共感』ひとつを手がかりにして。

…それは私にもよく分かっていた。しかしその境界を越えられないものと認めてしまえば、理解の手がかりは得られない。私には、事柄に関心を持つためにまず共感が必要だった。また共感がある限り、相手の実存にまで踏み込むことが可能にも思われた。(p69)

著者の若き日の問題意識や取り組もうとした仕事についての記述とともに、この共感に至るまでの思いが書かれている場所が一番面白かった。極めて自然な形で、自分の問題として、この本に書かれているような問題に取り組むようになったのだな、ということがとてもよくわかったからだ。
そう思うと、被害者と加害者の側になんらかの境界があるような問題に加害者の側から取り組むことの難しさに思いをいたさざるをえない。越境しようとする気持ちや素直な動機は、非常に個人的なものであり、すとんと納得の行く形で問題に取り組めるようになるにはそれなりの心の変遷が必要に思えてくるからだ。
一方で『文学作品の理解も、一つの「越境」である(p69)』と書いている著者の言葉を目にすると、そして、この本を読んで実際に著者の気持ちが伝わってくるように思えることがあると、共感して境界を越えられる可能性もあるのかな、と希望も持てるような気がしてくる。そう思えたことが、この本を読んだ最大の収穫だった。
もちろん、全ての社会的問題にコミットする必要はない。でも、身近なところで他人の心からの体験や告白、苦しみの言葉などを耳にしたときに、素直に共感できるような心の構えはもっていたい。自分のことに精一杯だと、報道される社会問題にたいする関心どころか、身近な人の苦しみへの共感すらもできないことが多くなってしまいそうだ。
社会に存在する越えがたい境界や解決しがたい問題に、いかにしてコミットしえるか、そういった難しい問いへのヒントとなる本。心をなるべく素直にして、著者の心の変遷に触れてみたい一冊である。