菅原克也「英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)」

新指導要領で打ち出されたという、「高校の英語の授業は英語で行う」という方針。この、コミュニケーション重視ともいえる英語教育の方向に疑義を呈し、文法と訳読(英語の文を日本語に訳していくこと)の重要性を改めて提起する一冊。

英語でのコミュニケーションが必要とされる場に立った際、ある英語表現について、自分の知識に照らして理解できる、知っている、という力をまず身につけておくべきである。運用するための練習は足りなくとも、必要になった時に、自分自身で運用能力を向上させてゆける素地を作っておく。コミュニケーション能力を、実際の場で磨いてゆくことができる土台を固める。それが、日本語の環境に生活する高校生たちが、かぎられた時間のなかでおこなっておくべき英語学習であるはずである。(p57)

もはや付け足す言葉がないほどもっとも至極である。高校までの文法や訳読を中心とした英語教育がこういう役割だ、という意見のなかで、個人的にはいちばんしっくりきた。
この本でマーク・ピーターセン先生がいみじくも示してくれているように、英語と、日本語を往復して、その表現やニュアンスの違いを知ることで、はじめて英語に対する意識が研ぎすまされていく。どういうときに言いたいことがすれ違うのか、どういうときにぴたっとくる表現が見つかるのか。そういう試行錯誤の繰り返しが、外国語を深く学ぶことなのだと最近徐々に実感し始めている。
すなわち、著者が述べるところの、

英語と日本語のあいだにあって、対応しにくいもの、見合わないもの、等価とは言いがたいものが数知れずあるということを、実際の変換の場で体験しておくのは、とても大切なことである。(p200)

ということだ。だからこそ、その基礎になる知識、文法がちゃんと「日本語で」理解できているという土台の大事さもよくわかる。著者の述べていることには、何の違和感も感じない。

いっぽうで、である。どういう意図で、英語で授業を、という土台を無視したような方針が打ち出されるのかを考えてみても面白いかもしれない。
実際、上の引用箇所のように、土台を元にして、英語の能力を自分の力で向上させていける人がどれだけいるのだろう。国際化の時代といいながら、そのように地味に自分の英語力を向上させていこうとする人は、そんなにいないのではなかろうか。東大で英語を教えている著者だからこそ、そうした向上心と土台の大事さを信じられるのかもしれない。つまり、高校の英語の授業を英語で、という方針を打ち出したお役所の側は、日本人に求める英語力というものを、もっとレベルを低くして考えているようにすら思われるのである。それは、自分で考えたりしなくていいような、直感的で子どもの学ぶような、英語力である。そこでは、難しい言葉をどうにか理解していくことや、外国語で話すことによるすれ違いや、論理を戦わせる状況などは、想像すらされていないのではないか。

著者の怒りは、もっともである。筋も、きっちり通っている。ただ、自律的な向上心に頼らずに、正攻法で日本人の英語のレベル全体をあげるのは、とても難しくて時間のかかるプロセスであるだろう。

著者が大事だ、と述べる、「読む」「聞く」というインプットをいかにするか、ということについてのアドバイスは実に役に立つもので、一読の価値がある。英語を教える立場にいる人々が一番得るところが大きい本かもしれない。