頭のいい人の、無邪気さと傲慢さのあいだ

追記:ちゃんと話してきました。つづきはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/PineTree/20090130/p1
追記2:これだけでは分からないことについて、以下にも書いてみました。
http://d.hatena.ne.jp/PineTree/20090226/p1



http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1
以前この記事を読んで、なるほどと思った。
確かに日本では「勉強ができる」ことへの偏見のようなものはあるし、それが科学の発展を妨げているところもあるかもしれないな、と実感があったからだ。
今日この記事を思い出したのは、頭がいいことへの偏見を生んでいるかもしれない、頭のいい人の無邪気さ(英語で言えばナイーブさ)に接してしまったからだ。

私は大学で研究をしている。チームで研究をしているうちの部屋において、自らの研究とともに、チームの指導的立場を求められることも増えている、というくらいの立場だ。
修士論文の発表が迫っている時期で、4人もいる修士2年の学生がパワーポイントと格闘している。修士2年の学生は、毎年発表する前に、「練習」をすることになっている。どこの研究室でもあると思うが、すなわち、修論の発表をする学生一人一人について、博士課程の学生、そして若手の研究員や教員が彼らの発表を見てあげて、問題点をコメントするのである。
しかし、バラバラに来られたり、好きな時間にやられても困る。教員も年上の学生も、都合というものがあるからだ。そこで、練習を見てもらいたい彼らは、毎年上の学年の先輩や、同学年で相談して、練習の日にちを決めることになる。
まず困ったことに、今年はこの相談がほとんどなく、「明日やらせてください」「これからやりますがいいですか」といった具合でバラバラに学生がやってくる。例年通りなら、突然だろうがなんだろうが見てくれて当たり前だと思っているフシがある。それでも、まあいい。どうせやらなければならないのだ。みんな優しいし、どうにか都合をつけて一人おおよそ3時間くらい(それ以上かかるときもある)、発表の3日前までには、4人分の発表の練習を見ることができた。
もちろん、それぞれの完成度に違いはある。4人いるうち、2人は博士課程に進む。彼らは、学会発表の経験もあり、一人などは論文もアクセプトされていて特別研究員になれることが決まっている。言うなれば、発表に関しては、相当に安心していていい。もし不安な点があっても、個人的に何人かに聞けば大丈夫だろう。しかし、学会発表もしたことがなく、研究が投稿論文という形にもなっていない2人には、さすがに不安がある。問題点を解決して、もう一度くらい練習をしておきたいところだった。
しかし、発表の直前になって、「2度目の練習をしたいのですが…」と来たのは、よりによって論文も出ており、来年以降良い身分になれる学生だった。確かに、前回より改善すべき点はあったかもしれないが、個人的にいろいろな先輩に聞いてもいたようだし、学会発表の経験もあるだけに心配はいらないと思っていた。やるべきことがあったし、見られない理由をそのように話すと、「前回より大きく変わりましたので…」と不安げな顔で言う。
しつこいが、この学生は、来年以降特別研究員になれる。しかも、論文も出ている。相当に恵まれている。そうなれたのは、テーマの良さもあるだろうし、論文や申請書を一字一句見た私や教員の尽力もあるだろう。もちろん、才能もあると思う。この学生はいつも謙虚に「私は研究者として生き残っていけるでしょうか」とか「私などまだまだです」と言っている。この態度は、もちろんこのご時世であるし、そう思うのも無理がないと思う反面、他の人より頭が良くていい立場にいるのに謙虚に過ぎるように見えて、同期をはじめとして、あまり研究室の仲間からは好まれていない。あまりいい書き方ではないかもしれないが、謙虚さにつきまとうちょっとした嫌みさというか、そういうものを感じる人もいるらしかった。そういう感情に、頭がいいということへの偏見や嫉妬が含まれているかもしれないことは否定できない。しかし、ぼくは先輩ということもあってそこまでいやには思わなかったし、チームの仲間として一緒にうまくやっていた。
しかし、さすがに僕も、少々今回は腹立たしくなった。なぜ、あなたが一人でもう一度見てもらおうとするのか。
確かに、がつがつするのは悪いことではない。頭の良さは、どんどんアピールすべきだ。私はまだまだですといいながら、懸命に自分を磨く。いいことだ。そういう人が、アカデミックな世界で生き残っていくのだろう。
それでも、ちょっと待てよと言いたかった。自分の論文や発表は見てもらって当然だ、という態度が、謙虚な表面から透けて見えたからだ。
学会発表したことのない2人は、その学生が2回目の練習をしている最中、違う部屋で「発表まで時間がないですが、もう一度見てもらおうかなと思っているのですが…」などと言いながらスライドを直していた。しかし、博士課程にすすむ例の学生に時間を割いてしまうと、彼らを見る時間はほとんどないのだ。彼らが、博士課程に進む例の学生に比べて、要領が悪いと言えばそうかもしれない。ずぶとく「見てください」と言うべきだったのかもしれない。しかし、それをさておいても、研究室として良い立場に押し上げてもらっている人間が、彼らのような、発表に慣れていない同期のことを考えずに、ひとまず自分の発表さえよくなれば、と考えていていいのか?少しは、周りを見渡したらどうなんだ?そういう思いがふつふつと湧いてきたのである。
ある意味、これは無邪気さだと思う。頭のいいことへの偏見がある地域もあるし、そういう学校もある。しかし、東京の有名私立中高一貫校で過ごしたこの学生は、そのような偏見に身をさらされることなく、無邪気に好きなことを追い求めてこられたのだろう。…皮肉なしに、実にいいことだ!頭がいい、という蔑称があることを知らず、ここまで来られている。そういう人が残れるのが、アカデミックな世界とも言える。地方で生まれ育ち、頭の良さへの偏見にさらされ、「常に頭の良さは隠すものだ、嫉妬をもたれないように注意すべきだ」と教えられてきた僕には、まぶしいほどうらやましい。
でも…。でも、である。この学生は、自分が他の人に押し上げてもらっている一方で、他人を時には押しのけているかもしれないということに気づいていない。そもそも、自分が他人より良い立場にいるとも思っていないのだ。
しかしそろそろ気づくべきだと僕は思った。ノブレス・オブリージュという言葉の意味とは少々違うのかもしれないが、自分の好きなことを不自由なくうまい具合にやれている人間は、それなりに周囲の、自分よりうまくいっていない人のことを気遣うべきではないか。偽善でも良いから、がつがつした気持ちをそうい気遣いというオブラートにくるんだときに、嫉妬やら偏見やらから身を避けて、真の頭の良さを発揮できるのではないか。研究室の雑用やらをこなしながら発表を仕上げている学生もいるなかで、この学生はひたすら自分に閉じこもって作業をしていた。練習を見てもらう段になってまで自分しか見えていないのでは、「他の研究室の同期よりもずっと立派な発表をして、奨学金免除を受けたい」などと思っているのかな、などと勘ぐられてしまう。
こういう才能のある人を、叩いてはいけないとは思う。がんがん伸びていくべきだ。でも、そういう人間の側にも、もう少し叩かれない「出方」があるのではと思う。ましてや、大学(社会もそうだが)は嫉妬と偏見が渦巻いている。表面上の謙虚さではなく、こういう切羽詰まったときに現れる態度が、人をいらだたせることもある。無邪気さはいいことだが、「頭がいい」という偏見に鍛えられる社会性もあるような気がするのだ。偏見を感じたことのない人には、それが欠けている。それでもいいのだ、そういう人こそ排除してはいけないのだ、という意見も確かにわかるのだが。
しかしもっと言うなら、こういう無邪気な人がそのままアカデミックなポストを得ることで、大学の硬直性は生まれているのかもなと思った。教授になってもなお、自分はまだまだだ、もっと努力していい結果を出さねば、とばかり考えて学生のことや研究員のことを考えなかったりするのは、こういうある意味頭が良くて無邪気な人であるような気がする。
…そういうことを伝えようと思ったが、あまりに無邪気なこの学生に、それを年上の僕から伝えるのは、ある意味アカハラかなと思って、やめておいた。