齋藤孝「上昇力! 仕事の壁を突き破る「テンシュカク」仕事術 (PHPビジネス新書)」

何となく仕事にやる気がなく、衝動的に買ってしまった。

日々のテンションを高めることが大事、と述べる部分で、「ビジネス啓蒙書を読むだけでもいい」「手軽に読んで上がったテンションは、賞味期限も短い」と書きつつ「忘れてしまうなら、毎日読めばいいだけの話」(p57)とビジネス書の効用を説いている。自分としても、こういう手軽に元気とやる気を出す手だてとしてビジネス書は悪くないと思っているので、なるほどと思う反面、まあ賞味期限は確かに短いよなという点についても全く同意する。
だからこそ、ビジネス書でも、twitterで見た名言でも、これはいいことを言っている、やる気になった、という言葉などを記録して、時々反芻するのはとてもいいと最近思っている。案外、ずいぶん前に読んで記録したものに、改めてピンときたりするものだ。

というような「テンションを高めろ(いつも上機嫌でいろ)」の他に、「忠告に従い自分の弱点を修正せよ」「勝手に判断せず確認せよ」という、社会人になるにあたって身につけておきたい3つのアドバイスがこの本では述べられる。合わせて「テンシュカク」というのだから少し笑えるが、なるほど、どれも確かに仕事をするうえで大事な力であり、最近ますます若い人に欠けている力と感じるので、説得力はある。
一方でやはり、この本のアドバイスを体育会系で、年寄りの保守的なおせっかいだと思う人も多いだろうとも思う。そう思ってしまうと、その瞬間に自分を修正していく回路が閉じてしまうのがもったいないが、案外そうなってしまう学生は多いのである。

最後に、覚えておきたい仕事上のコツをいくつか。

必要に応じて必要な人員がサッと集まり、用件をすませてパッと散る。(p124)

この本では「簡易会議」と名付けているが、これはよく今でもやる。結果が出たテンションのまま次の計画を立てたり、困っていることをすぐ解決する感じが、確かにテンションがあがってよい。今どきの学生にもとてもマッチしたやり方と思う。

指圧マッサージを受ける際、施す側の腕もさることながら、受ける側も身体を固くしていると、効果は半減してしまう。…(中略)…うまくマッサージを受けるには、身心ともにリラックスして身を任せることが不可欠なのである。(p139)

この本では「積極的受動性」と名付けている。これも最近よく感じるところ。身体を自由にして外に開かないと、外からうまくモノを受け入れられない。他者との関係も同じだったりする。

他にも、みんなで集まって問題点を文字にしていく「マニュアル作り会議」、スピードを上げて修正を繰り返すことこそが組織を進化させるという考え方、同期のトップで満足するのではなくいくつか上の先輩社員を意識せよ、上司のダメだしを2割3割増しで修正して返しアピールせよ、など、仕事に直接役に立つアドバイスが満載である。この人は、徹底して身体から入っていき、大学の先生ながら、とことんまで社会に役立つ身の構えを考えていこうとする所が、なかなかすごいと思う。こういう本を直球で書けるあたりも、教育者としての齋藤先生の魅力を示すものであると思う。

長野慶太「部下は育てるな! 取り替えろ!! : 勝つ組織を作るために (知恵の森文庫)」

焚書」と表紙にあり、かなり過激でうさんくさいと著者自ら述べるビジネス書であるが、実にこれがまっとうで、これのどこが過激で焚書ものなのかと、世間の組織のあり方を疑問に思わざるを得ない。
例えば、タイトルの、部下への接しかたについては、こう書いてある。結局自分でやろうと思った事しか人間は身につかない。だから、部下に上司ができるのは、見守って環境を整備し、動機づけをしてやることだけだ。…実にまっとうで文句のつけようがない話で、最近、落合さんの本を読んだり、頭はいいのだが努力の方向が違っている学生と接していたりしてとても実感するところである。若い人に、組織論を説いても、納得してもらえない。彼らの動機をしっかり捉えて、どういう方向で頑張れば自分の能力を伸ばしていけるか、について気持ちを奮い立たせてあげることが大事なのだ。これを「育てるな」と捉えるか、これも育てるうちと捉えるか、というところでこの本の読み方はだいぶ違ってくる気がする。
これだけでなく、部下とは酒は飲まずランチを共にするか金曜日にピザを出し「公共の福祉」について話し合え、出て行く人からこそ職場の問題点を聞き出せ、質問し期限を決めさせ部下の発言に重みを持たせろ、叱る時にはフェアネスをもって冷静に危機感を持たせろ、配慮しながら正論を吐き、いざとなれば会社のせいにせずに離れろ、など(詳細は書かないが)、そうだこれは大事だな、と再確認できるような提案が満載で、仕事のしかたを再確認できる。
同時にこの本は上司になるものの強い自覚を求めているのがいい。何でも経費で落とす事はしない。部下へのお金はけちらない。会議は自分以外の人の時間をたくさん奪うことを常に考える、など、上の立場になって慣れていくとタガが外れがちなところにしっかり注意を促している。「部下は育てるな!」と上司にとって都合のいいことを書いているようでいて、一方で上に立つものはこうあるべき、というところを強く打ち出している。
口当たりの良いビジネス書にはない切り込みかたで、ほんとうの意味での組織として動ける強さを語るこの本。目を開かされるところ、反省させられるところが多く、出色の一冊である。最後に、今大事だなあと思っているところを、心に銘記する意味で紹介しておく。

自分のことを振り返ってみよう。
あきらかな失敗ならともかく、人間、みんな自分が正しいと思って行動しているのである。
あるいは、非は認めるが、前の部分に対する言及がなければ物事の全体像を見失ったアンバランスな評価だと不満を持つ。
それが人間である。
そして、人間は自分に対する「フェア」には人一倍敏感になっている。自分に向けられた「アンフェア」は生涯忘れない。
あなただって忙しい。だからあなたのその苦言は有効な苦言でなければならない。にもかかわらず、あなたの部下が相変わらず「アンフェア」だと不満をもちながら聞いているのは、いかがなものだろうか?
そして、あなたも内心「いつかやつもわかる」と自分で納得しながら苦言を続けているのは、本当に成果の最大化に向かっていると言えるのか?
それはとても非効率なリーダーシップだ。
しかし、「フェア」だと部下が感じてくれれば、苦言の中身が仮に一部誤った理解に根ざしていたものだとしても、部下はそれを受け止める。
そして、フェアだと感じさせるには褒めることが一番有効なツールなのだ。(p158-159)

内田樹「先生はえらい (ちくまプリマー新書)」

思うところあり再読。前に読んだのはもう6、7年も前のことだ。

そのときは、こんなことを書いた。

著者曰く、師が何を知っているかは弟子にとって問題でない。弟子が、「師が自分の知らないことを知っているはずだ。それはなんだろう、何を伝えようとしているのだろう」とある意味誤解することが師弟関係にとって重要なのだ、と。自分の経験に照らせば、中学から高校、大学と進学するにともなってどんどん師の知っていること、考えていることの限界が見えてくる例が多くなる。どうやら、それでもかまわないのかもしれない。どうあれ、その限界が見えるまで学ぶ気になったきっかけは師匠にあるはずだからだ。
著者はまた同様に、相手が誤解する余地を残しているコミュニケーションこそが、気分がよく、コミュニケーションしている実感をもてるものだ、と述べている。将来自分が師というべき立場になったとき、どれほど「何か考えているような、何かを伝えたそうな」オーラを出せるか…。

こうは書いたけど、このときは師を完全には理解していなかったとおもう。どこかで、師が完全ではないことを認められなかった。同じ立場に立ったらどうか、と考えてみることをしなかった。

そう思うのは、そのときの自分と同じくらいの立場の学生が、師の欠点ばかりを見てしまうのを目のあたりにしたからだ。今では、立場が変わったり師との距離が近づかないとわからない、この本で著者が述べる「師」ならではの「えらさ」があるのだと思っている。しかし、それは決して、「師と弟子」という枠組みでは認識されえないものなのではなかろうか。

その学生がそう言うように、ぼくも若いとき、「もう師の考えていることなどわかっているよ」と思っていた。まさに、反抗期・思春期に「父母の考えていることなどわかっている」と言うのとおなじいいようだ。しかし、師にとって、「わかっている」と言われるのは、「あなたはもういなくていい」と同義で傷つくことである。自分のことがよくわからない、と感じるとき、人は言いよどみ、対話の中で訂正し、解釈を対話しているものに委ねることができる。自分のことはわかっている、と独断で決めて、あなたのこともわかっている、と言うとき、コミュニケーションの扉は閉じてしまう。
先生が自分の知らない何かを知っていて、それを教えてもらい承認してもらう、それが学ぶことだ、というやり方は高校生までで終わりで、そのやり方を大人になっても続けていくと成長はそれ以上はないし、そのやりかたはいつまでもは続かない。いずれ変わらなければならない。他人の無知と、自分の無知を認めて進まねばならない。
自分は知っている、と思うとき、他人の無知を認められない。師は、基本的には無知である(だって、全てを把握して導いてくれる人だけが師だったら、教育は成立しない)。そのことを認めて、なお師だと呼べるとき、人は大きな成長を遂げることができるのだろう。それは、コミュニケーションの扉を大きく開いて、知の量にこだわらずに人間を見ることと同じラインにある。

そんなことを今は思う。

佐藤優「人間の叡智 (文春新書 869)」

彼の本は難しい、という声があり、編集者の求めに応じて語り下ろし形式で書いた、と著者が述べるこの一冊。語られるのは、お得意の国際関係、政治のありかたについてであるが、それが日常の仕事や生活に結びついてくるようなところが、語り下ろしの良さといえる。
著者が必要だと感じているのは「叡智」である。英語で言うと「インテリジェンス」だそうだ。彼の本のタイトルで何度か出てくるキーワードだ。生き残るための知恵、知識、という意味らしい。
著者の本の面白いのは、やはり歴史をしっかり踏まえた上での議論をしているところだ。歴史は繰り返す。資本主義と社会主義という冷戦の図式が崩れ、国家が生き残るために争う、いわば再び帝国の時代になった現代。その時代においては、国家の機能が強化され、社会のありかたも変わっていっている。この時代のありかたは、冷戦時代のこと、マルクス主義のことをよく知るからこそわかることがあるのだとこの人からは思わされる。沖縄も、TPPも、そういう視点から見るととてもよくわかる。一つの視野を与えられる。
そのうえで、特にこの本の主張で重要と思ったのが、「物語」という言葉である。どの国も、政治家も、生き残るためにリーダーシップをとって物語を作っていく。どういう物語が人を動かしうるのか。著者は、歴史を知り過去の物語を参照することとともに、アイロニーやアナロジーといった、ひねった考え方が重要になってくるという。教養が不可欠で、さらに真面目だけでは語れない物語。そういう考えができるエリートの養成が重要だと語る著者の考えは、反発を覚える人もいるだろうが、これからの時代に合ったものであり、この流れに対する支持が少ない日本を憂う気持ちは理にかなっていると感じられる。
読んでみて、語り下ろしでもやはり多くの人には難しい(理解から若干遠い)内容かと感じた。しかしそこに、著者の気概とこの本の存在価値がある。これを読んで、考えようとする人こそが、彼の求めているものだろう。国家とは、歴史とは、エリートとは…そういった、この本の理解の基盤になるようなことを普段から考えている人は、一流大学を出ている人でも決して多くない。社会を動かせるエリートを作る。簡単に書いても、これほど難しいことはない。

竹内健「世界で勝負する仕事術 最先端ITに挑むエンジニアの激走記 (幻冬舎新書)」

一人の世界的エンジニアが世界を相手にハードな競争に挑む…というイメージだったが、良い意味で読んだ印象は少々違った。企業への就職など考えていなかった一人の若者が、熱い思いを語る先輩に感化されて半導体のエンジニアの世界に入り、世界と勝負するに至るまでの成長の過程は、「仕事術」というよりは社会人のビルドゥングスロマンとでもいうべきドキドキ感がある。自分のために社内の制度を変えるなど、自分に必要なものに向かって一直線に向かっていく著者の姿は、仕事の楽しさをこれでもかと教えてくれる。
才能のある人の進路を決めるのは、損得ではなく、ある場所で人生を賭けて働いている人の熱心な言葉だったりする。人生の先輩が後輩に与えられることはたくさんあるが、中でも一番大事なのが、彼らの心に火をつけるような熱意なのかもしれない。そして、それをもらった著者がまた学生などに同じ気持ちを伝えていく。著者がお世話になった人からもらった『君は私に恩返しはできないよ。これを君に続く次の世代に返してあげなさい(p61)』との言葉は、全ての「誰か先輩にお世話になった人間」(そうではない人の方が少ないと思うが)の心にぐさっとささるパワーをもっている。
さらに、そうしていろいろな人の力を借りて留学したMBAで著者が実感した哲学が、また、自分のためにただ進むことがよいのだという考えとは対極にあったというところも面白い。シリコンバレーは実は評判、人間関係が大事だというところは、知ってはいたが感心する。もっと、日本の若い人の間でもこの考えが当たり前のように浸透してくるといいのにと聞くたびに思う。

こう書いていくとどんどん自分のしたいことをしていく人のように見えるかもしれないが、この本からは全くそういう印象は受けない。むしろ、ギリギリまで、就職してMBAまでとらせてもらった会社に義理を通し、誰よりもその会社を良い方向にもっていこうと粘った著者の姿がそこにはある。この粘りが、後でいわゆる同じ釜の飯の仲間が助けてくれたりすることにつながっていく。
若いほど、自分の実力を過信するほど、このあたりを勘違いしやすい。実力があり、その方向が正しければ、すぐにでも独立して関係を絶っても、同じことを考えているみんなが助けてくれる、と思ってしまうが、そうではない。案外、義理堅いか、仲間のことをギリギリまで思ってくれるかというあたりを人は見きわめている。
グローバルに活躍するために自分を高めていく面白さとわくわく感が語られる一方で、こういった、ちゃんと周囲にそれを返していくこと、周りとの関係を重要と思いながらやっていくことの大事さを説教くさくなく、その経験から読者に伝えてくれるこの本は、ビジネス書の中でも異彩を放っている。
現在の著者の大学での経験も含めて、若者にどうすれば成長を実感してもらえるか、どのような組織がいい仕事を生み出しうるのか、について与えられる示唆はとても大きい。

守りに入って生きていて、のけぞって後ろに倒れそうになると、人は案外冷たいものです。その一方、果敢に挑戦し、前のめりになって、つんのめりそうになると、人は手を差し伸べてくれる。(p200)

山口周「天職は寝て待て 新しい転職・就活・キャリア論 (光文社新書)」

筆者は、幸せな職業人生を歩むためには、転職活動そのものを表面的にうまくこなすよりも、実際に転職活動に至るまでの、ごく普通の日常をどのように過ごすか、あるいは転職後しばらくして陥りがちな落とし穴をどう避けていくか、といった点のほうがずっと大事だと考えているからです。(p19-20)

あまりにもっともなことを主張するこの本。ある人と一緒に仕事をしたい、という気分になれるかどうかが転職の大きな部分を占めているという話はよく聞く。年収や待遇ではなく、自分が何をできるか、どういう時、どういう人々と仕事をしているときに幸せを感じるのか、が仕事を考えていくうえでの鍵であり、そういう面で満足できる仕事がすなわち「天職」であるとすれば、普段仕事をまわりの人とするなかに、天職へと至るヒントがあるのは納得ができる。「石の上にも三年」という言葉に企業の側のうさんくささを感じていた一方で、転職を経験していくなかで、それぞれの職業の面白さが3年程度やらないとわからないのではと感じてきたと言う筆者の言葉はとても正直である。
一つ一つはばらばらに見えるかもしれないが、幸せな仕事をするための考え方は、極めてシンプルな、スタンダードなものだ。自分が常に天職にたどり着いていない気がしている人々に、今の仕事を大事にしてもらう、という一見遠回りながらも大事なことに気づいてもらうのは難しい。この本は、いろいろな考え方、エピソードから、少しでもそれに気づいてもらうきっかけになればと筆者が考えて苦労しているのが感じ取られる。
逆に言えば、「就職」という最初の一歩が難しいのが、「至るまでの、ごく普通の日常」が仕事と結びつきにくいことにあるのかもしれない。満足であろうが不満であろうが、とにかく仕事をしないことには「仕事観」みたいなものは醸成されないものだなと思う。

20〜30代前半といった時期に「自分らしさ」を追い求めて自己肯定しようとする度合いが高ければ高いほど、後になって自己否定せざるを得ない状況に追い込まれてしまう可能性が高い。であれば、逆に若いときは不自由さ、自分らしくないことにも「ある程度」は耐える、ということも必要なのではないか、と私は考えています。(p89)

この「ある程度」を見出すのがまた難しい。自分だけで判断するのは難しいだろう。自分のキャリアをつくっていくにあたって、同じ仕事以外の、親身になってくれる知人がどれだけいるかも重要だ。高校くらいからの知人のコミュニティだと、けっこう似通ったキャリアの知人ばかりになってしまうが、そこで異質な人を知人としてもっておくと、自分の仕事のやりかたに対する価値観が深まるのではと思う。そういう知人がいてくれてありがたいと個人的には感じているが、仕事をする上で格別必要ではないという考えの人も多いかもしれない。「寝て待て」ではないが、無駄と思えるようなことが、あとにつながることはとても多いのではないか。

鈴木宗男・魚住昭・佐藤優「鈴木宗男が考える日本 (洋泉社新書y)」

「戦後保守政治家の末裔」という呼び方が大げさながらも的確な政治家、鈴木宗男。一度は政治の世界から葬り去られたと思われた彼がなぜ、今また活躍しているのか。彼を良く知る二人が、彼のスタイル・政治信条とともにその秘密を語る。
消費税増税で国会が揉めている現在も、北方領土を訪問したりと忙しい鈴木宗男氏。読んでいて一番思ったのが、彼が実に「他人のために勉強する」「汗をかく」政治家だということだ。
政治家の勉強会などはあるだろうし、政治家たるものみんなそれなりの知識を持つ頭のいい人ばかりだろうと思う。しかし、それがなぜ実践になかなか結びつかないのか。その説明の一つとして、偉そうに語るのもなんだが思いつくのが、「箔を付けるため」や「自分の考えを固めて納得するため」ではなく、「他人のために勉強する」という視点がないのではということだ。
勉強すると仕事が楽にできる、と思う人もいるかもしれないが、あるところまでいくと、勉強すればするほどやるべきことが増えてくる。他人を救うために勉強したことが必要になってくると、勉強し損のような状況になってくることがある。これは誰もが納得できるわけではないとは思うが…確かにそうなのである。勉強すればするほど、同時に汗をかく必要が生じてくる。そんなこと知らなくても人は動かせる、お金がまわる…ような状況になると、人は勉強することが面倒になってくる。
しかしどうやら鈴木宗男氏は違うようだ。エリートではないということも頭にあるのかもしれないが、ここまでになっても、面倒に巻き込まれるようなことを勉強する。たぶんそのせいで外務省のエリートたちから嫌われたところはあるのだろうが、そこまでやってはじめて「政治主導」と言える。官僚を動かすためには相当勉強せねばならない。そして汗をかいてそれを役に立てていく。この本で彼の信条が、新自由主義に異議を唱える一方で、きちんと働かないのは許されない、という厳しいことを考えていることは、そうした、誰よりも勉強して汗をかく彼のスタンスとまさに一致している。下のようなことを正面から言える政治家を、ただ古いと言って切り捨てていいものだろうか。

お金を分かち与える政治家が少なくなったと思います。分かち与えるというのは、心なんですね。私は、自分よりも当選回数の少ない政治家で、政治資金に困っている人がいれば、身銭を切って応援したものですよ。これは当然のことで、政治家として、先輩としての役割だと思っています。同時に自分のポリシーを引き継がせるなり、イズムを伝えるなり、若手を育てていくのが政治家の責任だと思っていました。
…私は蓄財もしないし、借金もしません。与えられた環境のなかで余裕が出た分は若い議員を育てるために使う。それが国のためになる。政治の発展になると言ってきたものです。(p76-77)

若い人ほど、こんなことはできないだろう。どんなに古いと言われても、日本の保守政治家を生み出してきた帝王学は、やはりそれなりの価値があったのではないかと思わされる。