内田樹「先生はえらい (ちくまプリマー新書)」

思うところあり再読。前に読んだのはもう6、7年も前のことだ。

そのときは、こんなことを書いた。

著者曰く、師が何を知っているかは弟子にとって問題でない。弟子が、「師が自分の知らないことを知っているはずだ。それはなんだろう、何を伝えようとしているのだろう」とある意味誤解することが師弟関係にとって重要なのだ、と。自分の経験に照らせば、中学から高校、大学と進学するにともなってどんどん師の知っていること、考えていることの限界が見えてくる例が多くなる。どうやら、それでもかまわないのかもしれない。どうあれ、その限界が見えるまで学ぶ気になったきっかけは師匠にあるはずだからだ。
著者はまた同様に、相手が誤解する余地を残しているコミュニケーションこそが、気分がよく、コミュニケーションしている実感をもてるものだ、と述べている。将来自分が師というべき立場になったとき、どれほど「何か考えているような、何かを伝えたそうな」オーラを出せるか…。

こうは書いたけど、このときは師を完全には理解していなかったとおもう。どこかで、師が完全ではないことを認められなかった。同じ立場に立ったらどうか、と考えてみることをしなかった。

そう思うのは、そのときの自分と同じくらいの立場の学生が、師の欠点ばかりを見てしまうのを目のあたりにしたからだ。今では、立場が変わったり師との距離が近づかないとわからない、この本で著者が述べる「師」ならではの「えらさ」があるのだと思っている。しかし、それは決して、「師と弟子」という枠組みでは認識されえないものなのではなかろうか。

その学生がそう言うように、ぼくも若いとき、「もう師の考えていることなどわかっているよ」と思っていた。まさに、反抗期・思春期に「父母の考えていることなどわかっている」と言うのとおなじいいようだ。しかし、師にとって、「わかっている」と言われるのは、「あなたはもういなくていい」と同義で傷つくことである。自分のことがよくわからない、と感じるとき、人は言いよどみ、対話の中で訂正し、解釈を対話しているものに委ねることができる。自分のことはわかっている、と独断で決めて、あなたのこともわかっている、と言うとき、コミュニケーションの扉は閉じてしまう。
先生が自分の知らない何かを知っていて、それを教えてもらい承認してもらう、それが学ぶことだ、というやり方は高校生までで終わりで、そのやり方を大人になっても続けていくと成長はそれ以上はないし、そのやりかたはいつまでもは続かない。いずれ変わらなければならない。他人の無知と、自分の無知を認めて進まねばならない。
自分は知っている、と思うとき、他人の無知を認められない。師は、基本的には無知である(だって、全てを把握して導いてくれる人だけが師だったら、教育は成立しない)。そのことを認めて、なお師だと呼べるとき、人は大きな成長を遂げることができるのだろう。それは、コミュニケーションの扉を大きく開いて、知の量にこだわらずに人間を見ることと同じラインにある。

そんなことを今は思う。