鶴見俊輔「思い出袋 (岩波新書)」

八十を越えた評論家が、昔の思い出す風景、覚えている言葉、ずっと変わらない信条、老いた自らを見つめて思うこと…などについて語っていくエッセイ。

私は八十一歳を迎えて、視界がはっきりしているとは言えない。しかし、ぼんやりしていることと、それがしっかり自分に根づいた見方であることとは、飽相反するものではない。(p33)

難しい評論などをものしている人、というイメージをこの人に抱いていた。しかし、このように書かれているように、既に八十を越えており、本人は「ぼんやりしている」と言いつつも、読んでみると言葉は実に簡潔で、全くストレスがない。難しいことを考えてきた人がおじいさんになったとき、かつて考えてきたことを真っ正面から出すことなく、しかし若者をいろいろ考えさせるような含蓄に富んだ言葉をつむぐ。かっこいい老い方だとおもう。
ハーバードに留学して迎えた日米開戦。難しい思いを抱きつつ日本に戻る船に乗る著者。人を殺すことは嫌だと考えつつ戦争のただなかで働く著者。
楽しく読めたのは確かだが、個人的には、このエッセイの言葉やエピソードの一つ一つが考えさせることは、重たかった。

そうしたエピソードのなかに、なかなか咀嚼するのに時間のかかることばもある。そうしたものを見出したらとっておいて、後でじっくり考えたりするのも、こうした本を読む楽しさである。残念ながら、やっぱりまだわからないな、とおもうこともあるかもしれない。

たとえば、何カ所かから伝わってくる著者の実感からくるメッセージとして、次のようなものがある。
それは、人間の考えること、現実社会で起こることは、枠にはめることはできない、幅をもったものである、ということだ。当たり前のように思えることだがしかし、若いうちほど、自分のこととなるとなかなかそうは思えない。自分に向けられた言葉は、ついつい悪いところをとってしまう。うまく拾えば、実はすごく自分を成長させる意味が含まれているかもしれないのに。
毎日目にし、耳にするものを、幅をもって受け取れるような自信を持つのはむずかしい。でも、ほんとうに頭が良いなぁ、大人だなぁ、とおもうのはそういう構えを持っている人で、この本からもそういう構えが伝わってくる。そういう幅を持っている人になりたいな、とおもう。