海老沢泰久「美味礼讃 (文春文庫)」

これはおもしろかった。日本一の調理師専門学校の経営者であり、料理研究家である辻静雄をモデルとした評伝。500ページ、一気に読み切った。


未だフランス料理のなんたるかも全く知られていなかった時代、料理学校を経営していた養父から渡された本を頼りに、フランス料理をまさに「研究」して自分のものとしていった主人公。その知識をどう生かすかを特に考えぬまま、一切の先入観のない素人ならではの好奇心で自分で考え調べ、会いたい人に会いにいく。その行動力と情熱にはとても刺激を受ける。

「ガストロノミー(美食学)」の世界は広くて深い。次々に出てくる食についての本の数々。料理に情熱を注いだ男の評伝でありつつも、料理と食に関するマニアックな文献が次々と出てくる。
主人公は、こうした本に触発され、その著者に実際に会いに行ったり、紹介されているレストランに足を運んだりして世界を広げていく。このさまは、研究者や芸術家など、何か体系化されたものを学び吸収し、自分なりにある分野を作り出そうとしている人間を触発するに十分だ。

学んでいくうち、食の世界は、メインの料理だけではないことに気づいていく主人公。膨大な種類のワインにチーズ、デザート…。その複雑さにくじけそうになりつつ、本物を味わい勉強していく。知れば知るほどわからないことがあることがわかっていく。世界に名だたる料理人に認められた料理学校の校長であり、日本人の多くにフランス料理を紹介する著書を著した伝道師という、説得力を持って学んだことを人に教えられる立場に立つためにどれだけの努力があったのか。
自分にまだまだ足りないものを実感するとともに、真摯に学び、仲間を広げていく主人公の姿に感動を覚えた。


自分の学んだ技術をオープンにしてその分野自体を盛り上げていこうとする態度についてや、先端の研究と同様に多くの人の人生には無用のものである高級フランス料理を人に広めようとすることの意義についてなど、考えさせられることも多く、読んでいて刺激を受けっぱなしな本であった。


それにしても、いまさらながら、本当においしい食事、本当にすばらしいワインなど、食にたいする教養は、ちょっとかじっただけの知識で語れるものではない。
人生をかけた追求の果てにわかるものがある。だからこそ、自分の舌、自分のつたない経験にたいして謙虚である必要がある。冒頭の、政財界の偉い人を集めたディナーのくだりは、皮肉をこめてこのことを思い知らせてくれる。