辻原登「円朝芝居噺 夫婦幽霊 (講談社文庫)」

三遊亭円朝という落語家がいた。江戸から明治にかけて、多くの新作落語を世に問い、一つの芸能としての落語を確立した。現代落語の祖、といってもいいだろう。
こちらでも紹介している雑誌「東京人」の特集では、円朝を「落語界のシェイクスピア」と評している。現在でも彼の(当時は新作だった)演目が多く演じられていることからも、これが全く誇張ではないことが感じられる。

さて、この本の作者、辻原登さんを初めて知ったのは、落語家を主人公とした「遊動亭円木」という小説であった。これがめっぽうおもしろく、名前を覚えて気にしていたところ、数年前に出たのがこの小説。文庫化を待っていた。

とある文学研究者の遺品から見つかった速記録。これを解読してみるとなんと、未発表の円朝の怪談ものだった…。自ら演じた落語を速記にて記録し、本として公開した円朝。それが現在まで残り演じられているわけだが、それが新たに発見されたとすればこれは大きな衝撃である。その怪談噺の内容とは。そして、新たに発見されたこの噺の成立に関わる秘話とは…。

前段階で十分どきどきさせつつ、すうっと円朝の声が聞こえてくる。一気に、落語の世界に引き込まれる。
フィクションながらも、安政期の江戸の街の様子や、日本における速記の歴史などの興味深い歴史的知識を交えつつ、実際に口演されていそうなひとつの怪談噺が展開する。小説というかたちをとりながら、語り口は噺家そのもの、そして江戸の街をイメージさせるという意味で実に落語を聴いているようだった。実におもしろかった。
この怪談噺「夫婦幽霊」の部分だけでも十分おもしろいが、そのあとに付け加えられた、この噺の成立に関する文章が大きな落ちになっていて、ここでまたびっくりさせられる。怪談噺のパート以上に発揮された作者のイマジネーションには恐れ入るばかりだ。北村薫の「私」シリーズのある一編(少々ネタバラシになるが、こちらの小説である)を思い出させる、極上の文学ミステリーとなっている。

いろいろなイメージ、複数の過去が交錯する、実にうまく構成された大人の一品。これはおもしろかった。現代を舞台にした小説を主に読んでいるがたまには気分を変えてみたい、という人などにぜひともおすすめしたい。