熊野純彦「西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)」

高校生のとき、失礼ながら、倫理の時間は寝ているか別な教科の内職をしていた。今になってみると、あのときよくわからない言葉をぼやぼやと語っていた倫理の先生が、どれだけ奥深いことを言っていたかもしれないという思いにとらわれる。

ということで、この本。刺激的だ。しかし、原典の文章をなるべく引用する、というコンセプトだけあって、正直なところ、けっこう難しい。やさしく訳してありやさしく解説してくれていても、そして静かな場所で熟考しながら読んではみても、『存在と存在するものとはことなっている(p192)』などと書かれると、どうしてもわけがわからない。
いや、すぐわかるはずもない、と思ってしまって良いのだ。突き詰めて突き詰めきった考えの結晶が哲学者の言葉としてあるならば、それをすぐに理解できるだろうと期待するほうがおかしい。そのよくわからなさをそのままにしながら考えていくしかないのだ。

それでも、全体の流れからして実感できることはある。
例えば、よく言われていることだろうが、哲学のはじまりが自然科学と分離できないことは、この本の最初の方に出てくるひとびとの言葉からこれ以上ないほどに実感される。ものはなぜ「あり」、「ない」のか。ギリシャの海と空を日々眺めながら考えられただろう存在論から、哲学史は刻まれる。我々でも素直な気持ちになれば考えてしまうかもしれない素朴な考えを目にすると、こうした主題が実に現代にも通じるものであることが感じられる。


神が超越した創造者としてあること、という、その後の時代では当たり前のような考え方も、存在とは何か、善とは何か、自然の裏にあるものはなにか、などの問題について、今そこにある自然をじっくり見て突き詰めて考えていった結果として出てきたものなのだ。

存在すること、しないこと。一つとはなにか。そういう西洋の考え方というものを見ると、英語で、aやtheなどの冠詞がついたりつかなかったりすることで、抽象的とか概念的なものとか集合的なものを表わす表し方が変わってくることなども、結局こういうことを考えてきたなかから生まれてきているのだろうななどと連想が膨らむ。言葉が考えていることと切り離せないとすれば、英語などの外国語のニュアンスを正しく考えていこうとすれば、ひょっとするとこういう哲学的なことを知っておくのも悪くないのかもしれない。