堀井憲一郎「落語論 (講談社現代新書)」

前著「落語の国からのぞいてみれば」で、落語から江戸時代と現代の人間の暮らし・人生観について語ってくれた著者が、直球のタイトルで落語について論じる。
聞いた落語、音楽、読んだ小説…読んで面白かった科学論文を含めてもいい。こうした個人的な経験を語ろうとすること、他人と共有しようとすることの難しさ、それが可能なのか、について最近よく考える。自分がここに本について書くのも、自分のためのメモと思っていながらも、できることなら他人と共有したいという気持ちがあると思う。
しかし、落語や音楽など、ライブで聞いて心を揺さぶられたものについて語るのは、本とはまた違った難しさがある。自分が見てきた、聞いてきた経験・影響から逃れられない、本とは違って、その場にいない人には共有できない、実に私的な体験である。

それを著者は、どういう気持ちで語るのか。


落語は客との融和を第一とするという落語の本質を語る第一部や、声の使いかたなど落語の技術的なことを語る第二部ももちろん面白い。
著者は、こうして聞けば面白い、などと読む人に教えるつもりは全くなさそうだ。むしろ、そういう技術的なことに注意して聞くのは、『仕事で聞かないなら、あまり真似をしないほうがいい(p98)』と言ってしまうくらい。役に立つとかそういうのではなく、単純に落語をネタにして語ることそれ自体がエンターテイメントとして成立している。読んでいて、そういう落語の聞きかたがあるのだな、と思うだけで面白い。
例えば、「この噺家さんは間がいいねえ」というときの「間がいい」は何も説明したことにならない魔法の呪文みたいなものだ、と語るところなども目からウロコである。それは技術的なことではない、しいて言えば緊張を途切れさせないことだ、という観点は、なるほどと思わされる。具体的には次のような記述。

だから「小三治の間がいい」というセリフを省略せずに言うと「小三治は異様に長い間を取るが、その間も客の緊張線を途切れさせずずっと引っぱっていける、すごい芸人だ」ということになる。(p136)


しかしやはり、個人的にこの本で一番心に残ったのは、著者が「落語について語る自分について語る」第三部だ。
『どうしても私的なものにしかならない(p177)』落語についての発言をするように自分を動かしているのはなにか。著者はそれが、『なぜ、自分が舞台の上にいないのか、を説明するため(p180)』という気持ち、すなわち、一人で話し、人びとを巻き込むというシンプルなことなら、自分でもできるのでは、取って代わりたい、と感じる嫉妬である、と書ききる。
誰でも取って代われると思うわけではないし、素直にすごいなーと思う気持ちから語るだけだ、と思う人もいるだろうから、嫉妬という書き方は少し言葉が強いように感じなくもない。ただ、著者が自分の心を見つめて見出した「語ろうとする心の底には嫉妬のようなものがある」という考えには、少なからずドキッとさせられた。自分がインプットしたもの…音楽でも小説でも科学上の成果でも、何について語る際にも言えるような気がしたから。そして、それを自覚したうえで、覚悟を持って語ることに著者が意味を見出していることに、希望を見た。

あまり読んでいないのだが、過去に書かれた落語評論のうち、すぐれたものは、感情から書き出していることを自覚して書かれているはずである。感情でしか書けないことをわかっていて、自分の感情と向かいあって書いている。自分の感情を排除することは諦めている。そういう、きわめて勝手な文章だけが、読むに堪えるとおもう。自分のない客観的な文章など、踏み潰された蟻ほどの値打ちもない。(p187)

巧拙はあれど、何かを語るときは、自分の感情がスタートだ。いっぽうで、自分の感情に自覚的であり、それをうまく取り扱って読むに堪えるものにしていくこと。それでいいのだと思ういっぽうで、これほど簡単そうだけれども難しいことはない。