マルクス・アウレーリウス/神谷美恵子訳「自省録 (岩波文庫)」

ローマの皇帝が、日々の仕事の合間に書き残した言葉の数々。訳者である神谷美恵子の日記を読んだことがあって、ずっと気になっていたこの一冊を、じっくりと読んでみた。

古典であり、立派な本と思って読んでみると、その言葉の正直なこと、著者の存在が身近に感じられることことに驚く。
他人に見せようと思っていなかったこの記録には、どちらかと言えば哲学者になりたかった皇帝の、ある意味弱音と取れるようなつぶやきとともに、それではいかんと自分を律したり、励ましたりするための言葉が並んでいる。その人間くささが少し微笑ましいと同時に、それらの言葉はまた、読むものをもキリリとさせてくれたり、励ましてくれたりする。
思うように動いてくれなかったり、自分と違う考えを持つ他人(著者の場合は、部下など)に苛立つとき、他人に自分の仕事を非難されて自己嫌悪に陥るとき、自分の仕事と将来に迷いを感じるとき…誰にでもあるそんなときに、余計なことを口に出したりしてしまう前に、この本を開きたい。哲学者としても有名で、誰よりもしっかり生活せねばならない皇帝という立場にいた著者ですら、自分を保ち律するのにこんなに言葉と自省が必要だったことを思うと、気持ちの安らぐのを覚えるとともに、これを読むたびに、仲間が近くにいてくれるように感じる。

この本で繰り返される、著者が大切な考え方と思っていることは大きく二つあるように読めた。
ひとつは、自分がどのような仕事をするべきか、についてである。
自分の評判を気にしつつ、自分のやり方でいいではないかと自分に言い聞かせる皇帝。そんな彼は、『自然に従い、公益的な行動をする(p179など)』こと、『自分が全体の一部分であること(p189など)』を常に頭においていた。仕事をしていると、自分の気持ちに沿わないことをやらざるを得ないとき、人にあれこれ言われるときがあるだろう。そういうときに、自分の仕事が、全体(社会とか、組織とか)の公益にかなっているか、ということをまず考えよ、と彼は自分に言う。この考えは、皇帝という究極の「公的な」立場だからというのではなく、常に頭に置いておきたいと自分でも感じた考えだ。
ふと気づくと、自分が全体の一部であることを忘れ、自分の利益を追ってしまうことがある。そんなときに、この「公益」という考えを意識したいと読んでいて感じた。自分の思惑をひとまず切り離して、全体という立場から自分がやるべきことを考えてみると、やらねばならないこと、持つべき仕事上の哲学、が見えてくるように思う。

もうひとつは、他人との関係も含めて、自分にとっての不幸や悪いことをどう捉えるか、について。
繰り返される、同胞を愛せ、その心を推し量るな、他人に怒りを向けるな、とのことば。皇帝という立場から、多くの悪や嫌なことを目にしただろうマルクスはまた、自分の愛する子をも早くに亡くしている。他人や、運命に怒りを向けてもどうしようもない。だからこそ彼は、『君にとって悪いことは、精神においてのみ、存在するのだ』というようなことをいつも言い聞かせている。
ようは、悪いこと、嫌なことは、自分がそう捉えるからいけないのだ、ということだ。運命論者とも違うけれども、自分がコントロールできないことについてはあれこれ言ったり考えたりしない、という考え方。ビジネス書や自己啓発書などでよく書かれていそうな考え方だが、積極的になりたくもなかった皇帝という仕事に日々追われ、また不幸もあったこの皇帝の心から出た言葉は、よりいっそう心に訴えるものがある。

この二つに共通して流れるのが、誰しも死は身近にあるものだ、名誉や享楽などははかないものだ、という悟りだ。さまざまなことに惑わされずに、自然にかなったかたちで、公益にかなうような自分の仕事をする。
実際のところは、こういう考え方ははやらなそうだ。ウィンウィンとやらを持ち出して他人を動かそうとしたり、自分を計画的に成長させたりすることを重視するような考えのほうが、自分をどんどん成長させていきたいビジネス系の人をひきつけるのもわかる。きっとそういう人は、自分が平均寿命まで生きることを疑わない。
しかし個人的には、これを書いた皇帝のような、死をもっと近く感じていて、心の中にはかなさを抱えており、そして何より自分の存在の小ささというものを知っている人の下で仕事がしたい。そして、もし自分が上に立っていくとしたら、そういう人間になりたい。そういうところからこそ、素直で偽りのないかたちで「公益」の考え方が出てくるのだろうと思う。

アマゾンの書評を見ると、それぞれの人の好きなところが抜粋されていて、レビューを書いた人の心の中がかいま見えて面白い。
それとかぶらないところで、自分の気に入ったところを抜粋して終わりにしておきたい。

ここで生きているとすれば、もうよく慣れていることだ。またよそへ行くとすれば、それは君のお望み通りだ。また死ぬとすれば、君の使命を終えたわけだ。以上のほかに何ものもない。だから勇気を出せ。(第10巻二二、p198)