太田朋子「分子進化のほぼ中立説―偶然と淘汰の進化モデル (ブルーバックス)」

ブルーバックスにもいろいろなレベルのものがあるものだ。全く手抜きなし、一般向けとしては難解としかいいようがないが、実に読み応えのある一冊。
分子というミクロなレベルでの遺伝子の変化は、その大部分が生物にとって有利でも不利でもなく、中立であるとした「分子進化の中立説(neutral theory)」。木村資生によって提唱されたこの説は研究者の間に論争を巻き起こしながらも、おおむね受け入れられてきて今に至っている。
この、中立説の成立とその後の論争を木村の弟子として目にしてきた著者。この本では、その重要な貢献である「ほぼ中立説(nearly neutral theory)」の概要と、その現在における意義を語る。
とにかく、個人的にはとてもとても勉強になった。論文などで、自分はあまり知らないが前提とされているような分子進化のことが、その歴史的経緯も含めてよくわかった。
特に、4章までは実にコンパクトにそのあたりのことが書かれており、ためになる。自分の勉強のために書いておくと、ある生物種の集団のサイズが小さいと、「ボトルネック効果」による「遺伝的浮動(ドリフト)」の影響が大きくなり、生物にとって若干ではあるが不利な変異が残りやすくなる、という流れはとてもよく理解できた。
5章以下は、最新のものも含めた生物学の知見を材料に、生物がいかに多様性を持つのか、遺伝子レベルの変化がどのように生物の外から見た形態の変化に結びつくのか、という古くから問われている問題について、「ほぼ中立説」をもとにしてさまざまなストーリーを描いていく。見たことのあるあの知見やこの知見が、長年研究にたずさわってきた著者にはこのような示唆を与えるのか、このように違って見えるのか、というあたりがとても新鮮。著者自身があとがきにも書かれているように、かなり昔に展開した自説が、最新の研究結果によって発展し、また違った様相を見せてくるのを目にするのはまた格別な面白さがあるのだろう。
この辺りを読んでいると、論理が大事な分野だけに、著者がこれまで、その先生や仲間たち、さらには海外の研究者たちとさまざまに論じ合って考えを深めてきたのだろうなということも想像できて、面白かった。

だいたい同様の内容が英語で書かれた論文も出ているが、さすがに難しかった。この本は、日本語で丁寧に章立てして解説してくれており、それよりははるかにとっつきやすかった。…と言っても、脚注は編集部でつけたものであり、決して昨今あるようにわかりやすさを全面に押し出した本ではない。そういう意味で一般向けでは全くない。しかし、中立説を何となくは知っていてもその成立の過程や残された議論、説の精緻化についてあまり普段触れることは一般の生物学研究者には案外ないものだし、それらについて一番よく知っている著者が最新の知見まで含めて語ってくれているという意味で、たいへんありがたい一冊だったと感じた。
ただ、ここまで手抜きなしで書くならば、せめて文中で引用している英語文献を巻末にきちんと列挙してほしかった。自分で調べてわからないことはないと思うが、さすがにもう少し勉強しようというときには不親切だ。
著者の先生である木村資生の、岩波新書の名著とともに読みたい一冊。

生物進化を考える (岩波新書)

生物進化を考える (岩波新書)