近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)」

大正初期にフランスに渡り、モディリアーニなどが活躍した1920年代の華やかなパリの寵児となった藤田嗣治。第二次大戦の影が濃くなり日本に戻るも、日本の絵画界は彼に冷たかった。自らの芸術を認めてもらおうと書いた戦争画により、戦後、画家としての戦争責任を問われる…。タイトル通り、最後まで日本に認めてもらえなかった「異邦人」としての画家の一生を追うノンフィクション。
多くの芸術家が集った「エコール・ド・パリ」における交流や当時の雰囲気は興味深く、この時代についてもう少し知りたくなった。この時代の藤田のファッションや女性遍歴、アピール好きな行動など、日本から見て「異端」であり「恥ずべき行為」と見えたようなこの時代の振る舞いを、著者は『異文化のまっ只中で自分の存在をどうアピールするのか(p167)』を考えた必死の行為であったと記す。この部分を読むと、確かにそういう気持ちだったのだろうなと納得し、日本では理解されなかったことを切なく思うとともに、無理もないなとの思いにもとらわれた。今の時代でも、そして、画家でなくても、そういう世界で派手に振る舞っているように見えてしまう人間は日本ではなかなか理解されないだろう。嫉妬もあるだろうし、学会や派閥意識もあるだろうし。
ただ、そうした葛藤する気持ちは、他人が書いた藤田の伝記への彼の書き込みに多くを拠っているこの本では、あまり書かれていない。また、戦争画を書いた責任を問われてフランスに再び渡ったあと、「日本に捨てられた」と語ったと書かれているが、もっと複雑な思いはなかったのだろうか。その他にも、数多くの女性遍歴を重ねるしかなかった心の裏にあった思いだとか、戦争画に込めた思いだとか、そういうことをもっと読めたらな、と感じた。研究途上ということもあるのかもしれないが。
もちろん、これは欲張りな感想であって、この本自体は夢中になって一気に読んだ。彼を巡る状況の変化とおそらくは彼自身の内面の変化によって絵のスタイルが変わっていく様子なども、絵はそれほど収録されているわけではないものの感じ取れた。母国を常に意識しながら、その母国に受け入れられない哀しみ。「異邦人」というタイトルから、もう少し、日本を突き放した目で見ていた世界的芸術家、という感じを想像していた。しかし、フランスに帰化し、キリスト教の洗礼を受けた彼の人生からは、どちらかといえば、日本へ長い長い片思いをしてきてとうとう叶わなかったような切なさが伝わってくる。
戦争画に関する記述とともに、「異邦人」を受け入れ難い日本という国について考えてしまう一冊。

そういえばこの本を読んで、同じ芸術家の評伝として下の本を思い出した。

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者

イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者

日系米国人イサム・ノグチの「異邦人」としての孤独と、そのスケールの大きな作品との取り組み方が心をうつ。その読み応えと面白さに感動した、初めて買った単行本。文庫も出ているのでぜひこちらもどうぞ。