水上勉「一休 (中公文庫)」

年末、京都に行ってきた。この世と隔絶したような雰囲気をもつ大徳寺塔頭司馬遼太郎の本を読んで、多くの人物がこの大徳寺と関わりを持ってきたことに興味を持った。千利休しかり、細川忠興しかり。
もう一人。とんちを利かせるお坊さんのイメージで有名な一休もまた、この寺のトップに立った名僧であった。しかしこの人の面白いところは、大きな寺に君臨することを好まず、寺には常在しないで、徹底して在野の禅僧であることを貫いたことであった。しかも、女狂い、いわゆる破戒僧であったのだ。もはや誰も真似できない禅を、地を這うような場所から市民にも分かるように立ち上げた一休。その評伝を、幼少時寺に預けられその世界を垣間見ている著者が書いたのがこの本。先の『街道をゆく』で触れられていたのがこれを読んだきっかけである。
とにかく身に迫るのは、一休の生きた室町時代の世相の荒れようである。天災、戦乱、モラルの崩壊。逃げまどい生きるのにも苦しむ多くの民衆。著者が複数紹介する、一休について述べる資料でひたすらに繰り返されるのは、そうした最下層の人々の姿だ。
そんな世において立派な寺にこもり安寧をむさぼる僧たちを批判しつつ、市井で破天荒に生きた一休。しかしそんな生き方ができたのも、強く人をひきつけるだけの魅力と、どんなに長い間姿を消していても誰かが注目しているような、誰もがすぐにわかるような禅僧としての実力あってのことだったのだろうと思わされた。禅僧としてのエリート街道を進むこともできただろうに、全てが見えてしまうような人物だったからこそ、一から自分の禅を立ち上げてやろうとした。僧としての、まさに「けものみち」をまっしぐらに生きようとした彼の自負と、どこかに感じ取られる孤独感が身に迫ってくる。
しかしだからこそ、晩年に得られる共感と愛情の深さにじーんとくる。稀代の禅僧の人生の振幅の激しい生き方を、自分なりの解釈で描いていく著者の思い入れが熱い。のめり込んで読んでしまう名評伝と感じた。