「クマグスの森展−南方熊楠の見た夢」

青山のワタリウム美術館にて。またしても会期ぎりぎりになってしまった。
生涯在野の一博物学者として、人間を含めた森羅万象に興味を持ちつづけた南方熊楠。その手紙や標本、アイディアを書き留めたノートなどを集めた展示。
この人のことを知らない人に説明するのはとても骨が折れる。それは彼のとてつもない捉えどころのなさに起因しているのだろう。そのあたりのことについては前にも書いたことがある。今、この展示を見てから読み直して、このときに書いたことをより実感したように思う。

鶴見和子「南方熊楠 地球志向の比較学 (講談社学術文庫)」 - 千早振る日々

今の言葉でも簡単に捉えられない大きさを持った彼の足跡は、それだけで十分に人をひきつける。
今回も、雑誌に出ているのをさらっと見て、あまり期待しないで行ったのだが、びっくりした。
標本や写真もそれはそれで面白かったし、熊楠はなんと言っても絵がうまい。写したものも、スケッチも、どれもじっくり見てしまう。しかし、なにより魅入られてしまったのは、『腹稿』と彼自身が呼んでいて、そのように名づけられ展示されているアイディアを書き留めた紙である。
ネイチャー誌に民俗学などについての考察を次々と発表していた南方熊楠。その実際の原稿とともに展示されていたのは、それこそ曼荼羅か何かの渦のように言葉が書き連ねられ、埋め尽くされた一枚の紙であった。いまどきの言葉ならマインドマップとでも言うのだろうか。しかしそれにしては解読不可能な言葉たち。小さい頃からの濫読で得られた知識や、大英博物館でひたすら本を写したその内容が、彼の頭の中で咀嚼され吐き出された姿だろうか。雑誌に出る論文はきれいな形で印刷され、その裏の思考の跡などはたどりようがない。しかしここには、確かに熊楠の頭のなかが紙に表出された跡があった。
いくら下書きとはいっても、これほどの密度と思考を展開してから書く人がどれだけいるだろうか。日常の中で生きることに多くのリソースを使ってしまっている現代の学者にはとても理解も到達もできないだろうすさまじさをこの『腹稿』に感じた。
菌類図譜の展示の中で、彼の晩年の日記を解読中である、ということも目に入った。理解しようとしてもしきれない奔放で自由な発想。『腹稿』を見てしまうと、少しでもそれに迫ってみたいという気持ちはとてもよく分かる。熊野の山で自然に入り込んで探求を続けていた晩年の彼の思索のあともぜひ覗いてみたいものである。
もっと、頭を自由にしたい。せっかく好きなことをしているのだから、誰かに合わせることのない、奔放な学問がしたい。せめて、生き残る方法を探りながらも、自分を枠にはめない部分を確保しておきたい。そんなことを、強く思った。