加藤文元「数学する精神―正しさの創造、美しさの発見 (中公新書 1912)」

現役の数学者が、一般向けの数学の本を書くのは、難しいことなのだろうなと思う。サイエンスの本はけっこう読むが、生物系が一番書きやすそうだ。一般の人にとっては、身近に覚えがあるもの、もしくは動物や人間の話が中心になるものが読みやすいだろうからだ。
数学は、なんたって抽象的である。語るには、高所に立たなくてはならない、ような気がする。偉くないと書けないような。しかしこの本は、そういった難しさや偏見を打ち破っているように思う。
著者は40歳。個人的な印象としては、数学でこういう本を書くにはかなり若い方だ。「はじめに」で、こう述べている。

この本は一般向けにわかりやすく数学を解説した本というよりは、むしろ「数学そのもの」についての本であり、数学についての筆者の個人的な思想や信条(そして心情も!)を率直に告白した本である。(「はじめに」)

そしてまたこの本は、立派にこのとおりに、「数学そのもの」について語られているのだ。解説されてふーん、といっておしまいな本ではなく、「数学そのもの」とはどういうものなのか、どういう営みなのか、ということを考えさせられ、学問のしかたや人間の発想のしかたにも考えをいたしてしまう。だから、まったく数式も数学も興味がない、数学ってなにをしているのかよく分からない、という人にこそ面白くなっている。
さらに、数学という学問の奥深さだけでなく、そこに見られる研究の流れや進め方にまで触れていてくれており、科学に携わるものとしては非常に興味をそそられるところがあった。自然界の現象に関係を発見し、モデルを立てて証明し、さらにそこから新たな意味を考える…。そういう流れはどのような自然科学でも同じであるのだ、という著者のメッセージからは、まさにいま発見をしようと数学と取り組んでいる現役感が強く感じ取れる。単に「数学って美しいですねー」といって薄っぺらく一般の人の興味を引こうとはしていない。パスカルの三角形という単純なモチーフを繰り返し用いて、簡単な式、それに伴う歴史、といったものを織り交ぜ、著者自身の実感からくる奥深さを語ってくれる。そして最後には、それが最先端の著者の研究につながってくることまで見せてくれる。
この、これまで数学の本にあったような「啓蒙」という感じの薄さが真新しく思えた。逆にあるのが現役感、研究への距離の近さで、これがこの本を面白いものにしている。『読者にも「数学の研究」という行為を「体験」してもらうように話を進めてきたつもりである。(p187)』という著者の試みは見事に成功していると言っていい。
数学に強くなりたい、とか興味がある、というなら、「あなたにもできる」とか「文系でも」とか「美しい」とか…そういうよくある文句がついている本より、断然この本を薦めたい。数学がもっと近く、その研究が身近なものとして感じられることは間違いない。まったく数学になど縁がない、という人にも、その研究のしかたには、仕事上での発想や創造のヒントのようなものがつまっていると思う。