小林信彦「名人―志ん生、そして志ん朝 (文春文庫)」

味と切れのあるエッセイが冴える作家、小林信彦さんが、自身が一番好きだった落語について語る。
この本が書かれた最大の動機は、他のエッセイでも触れられているが、古今亭志ん朝さんの死(2001年)だ。その親であり、昭和最大の名人である古今亭志ん生をきき、そして志ん朝の若かった頃から応援していた著者にとって、志ん朝さんの死は哀しいとか、切ないといった感情を超えた衝撃であったようだ。最初に、こう書かれる。

ぼくは、なぜ、自分が衝撃を受け、なんともいえぬ喪失感の中にいるのかを説明したいと思う。その説明がないと、ぼくが出す結論はおそらく唐突なものにしか映らないだろう。これは<一人の名人の死>といった<点>の問題ではないからだ。(p11)

ぼく自身、残念ながら一度も聞く機会に恵まれなかった志ん朝さんの死は、連綿と続く「江戸言葉」や「江戸文化」の喪失でもあると著者は惜しむ。『老後の楽しみはみごとに失われた』とまで書くその衝撃は、ぼくのような30前の世代にはわかりづらいかもしれない。そんな読者に対しても、いかに志ん生志ん朝という親子が魅力的だったか、どれだけの楽しみを日本人に与えていてくれたか、を著者は丁寧に歴史と自分の体験から綴っていく。人物描写のこまやかさ、江戸言葉のリアルさ、そしておかしみ。実際に聴かなくても、それは面白いだろう、と思えてくる。
親子の歴史と著者から見た魅力に加え、巻末では、夏目漱石我輩は猫である』を読み、落語と文学のつながりについても語る。漱石は、落語が大好きであり、その文学の中にも落語は息づいている。そうか。『猫』は大人になればなるほど笑える小説なのだ。
一冊トータルで読んで、これほど落語というものの魅力を自分の見てきたものから書いて語れる人はそうはいないと思われてくる。昔語りばかりしても…と思う人もいるかもしれないが、この本を読むと、今でも落語は滅びずにやられているのに、それでも昔のCDを聴いて楽しむ人が多いのがなぜか、がなんとなく腑に落ちる。
志ん生志ん朝の両名人がいなくなって何が変わったか。こういうことを、リアルで聴けなかった若者のために書き残すのが、リアルで見てその良さと価値を十分に分かった人間の責任なのだろう。
知らないからこそ、そして若いからこそ、読むべき一冊かもしれない。
本文中でも引用されている、志ん生の娘さんの書かれた親子についての物語も、読みやすいのでぜひご一緒に。こちらもまたしみじみと感動させられる。

三人噺 志ん生・馬生・志ん朝 (文春文庫)

三人噺 志ん生・馬生・志ん朝 (文春文庫)