安田敏朗「「国語」の近代史―帝国日本と国語学者たち (中公新書)」

「声に出して読みたい日本語」以来、伝統・文化ある美しき日本語を学び、その心を大切にしましょう、とかいう偉い方のありがたい言葉をしばしば耳にするようになった。伝統あるものを大切にするのはいいことだ、と言われるとまさにそのとおりで何も言うことがないように思えてしまう。しかし、極端なことを書けば、「本当にそうなのか、その伝統やら文化やらはいつかの時代に作られたものではないのか」と問うことこそが学者の仕事である。
本書は、明治維新後、国を一つにするために「国語」というものが創られ、その普及が方言の抑圧や植民地への強制を通してなされてきた歴史を追うものである。その過程で、多くの「国語学者」が国の政策に関与してきた。科学的という名のもとに、「国語」の優位と方言、朝鮮語の抑圧などを主張した学者が多くいたこと、そしてその主張が戦前戦後で変わらずに継承され現在に至っていることは記憶しておいてよい。その歴史を通して本書は、あとがきにあるように、『日本人は日本語を話す』という当たり前にも見える一文、そして日本語に過度の伝統や文化を盛り込もうとする傾向への違和感を抱かせてくれる。
その生きた時代から切り離して学者は存在し得ない。もちろん、その時代の流れに沿った研究をし、提言と主張をしていくのは簡単であるしそのほうが重宝され出世できるであろう。しかし、その時代制約を超えようとする努力と批判精神を忘れずにいることこそがアカデミズムの世界にいるものに求められているはずである。
読む側の不勉強もあるのだろうが、植民地にあった大学でどのような研究が行われていたのか、や植民地での日本語の扱いについての話も面白い。また、この本からは、戦前戦後の国語学者の主張について、一面的に「国語」を政策的に作り上げたとは言わず、冷静に言語として研究している面もあった可能性を検討しようというスタンスが見られて、落ち着いて読めたのがよかった。
「日本語ブーム」を一歩遠くから見る視点を与えてくれる一冊。