高橋哲哉「教育と国家 (講談社現代新書)」

今さら、ではなくて、今だからこそ読んでもいいのかもしれないと思い、読んでみた。
「最近の子どもの起こした痛ましい事件は、自由を重んじてきた戦後教育のゆがみが出たものだ」「だからもう一度、公共性や社会を愛するという大事なことを教えねばならない」…こういう立場を、著者は『戦後教育悪玉論』と呼び、それを推進する人の論理に飛躍や無根拠があることを指摘していく。
この人の本を、決して自分の立場を崩そうとしない、国家を愛することを教えなければならないと考える人の考えていることを考慮してみようともしない、と批判する人もいる。たとえば、こないだ本屋で立ち読みした本で宮崎さんという批評家は、この著者の「靖国問題 (ちくま新書)」について、自国の靖国神社はいけないというが、じゃぁ中国や韓国が自分の国に都合のいいことを言っているのはどうなんだ、極端なことを書きすぎだ、といったように批判していた。でも、高橋哲哉さんの主張したいことはそんなに薄っぺらではない。
たとえば、「靖国問題」についての上記の批判についても、「国家と犠牲 (NHKブックス)」という本では、どのような国でも国家に犠牲を捧げられるような装置をつくるものであり、それらもまた靖国神社と同様に問題があるものだ、と歴史的な背景をあげながら、その問題点を述べている。決して、日本ばかりが問題だと述べているわけではない。
現状の(つい改正される前の)教育基本法についても、この本ではそれが含む問題点をきちんと提示している。この著者の名前を見て、思想的に偏っているのではないかと考えてしまうのはもったいないことであると思う。彼の書く本からは、全く逆な主張を持っている人のそれに劣らない、まっとうな検討と批判をいつも行っていることが伝わってくる。
問題なのは、まっとうだからといってそれが通るとは限らないことだ。テレビに出てパフォーマンスをすればいいというものではないが、彼の声が決して届かない人がたくさんいる。もっと適当なことをいっても、それはそうだなと社会的に受け入れられる人の方が多かったりする。
著者がこの本の結論として述べる『市民社会の成熟』というものがいかに難しいか、この本がまっとうだからこそ、そしてそれが決して通らないからこそ、考えさせられてしまうという皮肉。