序 池澤夏樹「福永武彦戦後日記」

ジュンク堂で、滅多に買わない単行本を衝動買い。ずっと近くにおいて、旅先で、家で、ふと心を休めて、ゆっくり読んだ。今年のことを思い出す時、この本のこととリンクして思い出されるだろうと思う。

文学を志す一人の青年。戦争末期、妻と疎開し子どもが生まれた帯広はひどく居心地が悪い。しかし、そこで食べていけるだけの知名度もなし得たことも彼にはない。希望を見出すため彼は、家族を残し、仲間や肉親に会い、職を探すために一人旅に出る。それはまた、自分の希望を賭けた小説を完成させるためでもあった。しかし、食糧事情は悪く、職と住居は見つからず、残してきた妻からはこのあとどうなるのか、と手紙が送られてくる。仕事はすらすらとは進まない。いかにして文学者として身を立てるか、その岐路に彼はあった。

僕は厭だから飛び出しただけではない。僕自身の肩にかかつた責任を重く感じればこそ何とか希望を見つけたいと思つたのだ。それは三人の希望なのだ。(p59)

池澤夏樹の父である仏文学者、福永武彦の日記である。
高校生の時、文学を志す先輩に影響されてはじめて読んだ高見順の「敗戦日記」を思い出す。彼の、文学者として国の行く末を観察しているようでいて、それでもやはり自分も敗戦国の人間であり、国を案ずる感情が出てしまう、人間的な感じが好きだ。日記は、それ自体十分文学だ。
この福永武彦の日記も、まえがきで池澤夏樹が書いているように、その驚きの話の展開といい、自分を成長させていこうとする過程で遭遇するさまざまな障害など、事実でありながら、読み物として本当に面白く、のめり込まされる。
ちょっと高見順と違うのは、年齢の違いもあるがだいぶ書く人の心持ちが違い、もっと自分とリンクして読んでしまうところがあるところだ。もちろん彼らの時代と今の我々の恵まれた時代は比べるまでもないが、家族を大事にしながらどのように身を立てるか、時代の難しさと切り結んで、どのように自分のしたいことを実現させていくか…そういう苦闘の声が、日記の文面からひしひしと身に迫ってくる。

結果的に、福永武彦は帯広に職と家を見出し、これでハッピーエンド…というわけにはいかない。あれだけ希望を持ちかけ回り、しかしうまくいかず、その果てにようやく見出した仕事と二人の暮らし。それを打ち砕く病魔。彼が再入院して以降の、無力感、妻との心の距離、悲しみ、苦しみ…すべてがやりきれない。もう少ししたらどうにかなるはずだから待ってほしい、と愛する人に言う言葉の虚ろさと苦しさは、なにものでもない若者時代を経てきた人にとって、身に覚えのある、傷跡に沁みるようなところがあるはずだ。