野依良治「事実は真実の敵なり―私の履歴書」

ノーベル化学賞受賞者の野依教授が、日経新聞の「私の履歴書」に連載していた内容をまとめたもの。

同じ分野でないのでもちろん正確なところはわからないのだが、著者は、その発言力などから、政治的なことに長けている、と見られそうなところがある。実際、世界的な研究を他の研究者との競争と協力のなか成し遂げるのは、純粋に研究が好きで得意なだけでは不可能だろう。学生の時代から、仲間を引っぱる力が強いところがあったこと、若き日に新しく教員になった際に「鬼軍曹」として部下の学生に恐れられたことを書かれると、良い意味で、さもありなんと思う。
一方で、大学人としてさまざまな業績をあげた著者ではあるが、技術者の父を持ち、産業界との連携を常に考えてきた著者は、大学のある意味「ぬるさ」も感じているように思われ、そうした記述もところどころに見られる。現役の大学人に対する意識改革を迫っているようで、その口調は厳しい。

もう一つ、交渉力や人をまとめる力をつけるうえで大事だっただろうのが、遊んだ経験である。京都の花街で、自分より年上の一流の人々の会話から学んだ経験を、『一概に享楽主義とは片付けられないと思っている。(p82)』と控えめながら書いているところも、好感が持てた。実際、そういう遊び方を知らない先生は、広い意味での教養が少なく、部下や学生、同業者の仲間を引っぱっていく力に欠けるところがあるというのは、わからなくない。『教条的な建前論で教化され、偏った分別力ができてからではもう手遅れと考えている。(p82)』と書くように、いろいろな分野の遊び上手から、人生の極意を聞くことほど、人間を見る目を強化してくれることはないだろう。

もちろん、研究室内の言動やら問題やらまですべてを書けるわけではない。しかし、どこかで批判にさらされそうな人をまとめていく力をつけてくれた秘密のようなところを、控えめながらも、自分の『振る舞いが粗野』であるところも含めて書いてくれているところは、実に骨太だと感じた。

全体的に、著者の哲学のようなものが良く感じられて面白い自伝となっている。特に、研究の真の意義は、論文数だけでなく、研究者の思想や哲学も含めた価値、評判のようなものが重要になってくる、という指摘は、なかなか聞けない。論文を増やして自分を立てることを重視しているわれわれ若手こそ噛み締める価値がある言葉だと思った。こうした、「評判」のことや、自宅で仲間の研究者をもてなすことなどは、若くあればあるほど面倒に感じるだろう。古い意味での大学を嫌いになる人が、こういうところをこそ特に嫌だと思うのもよくわかる。しかし、そうした古いと思われそうなことに、世界で仲間を作り切磋琢磨しあう研究者になるためのヒントがあるように思われる。

社会連携や知財について、学術出版についてなど、その問題意識は多岐にわたる。正直なところ、すべてを理解できたわけではない。また、歳を経たときにこれを読むと、そこで見えてくるものも多いだろうと思った。