齊藤誠「競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)」

プロローグによれば、最初は『「豊かさ以上」(post richness)、「幸せ未満」(pre happiness)の時代』というタイトルが頭にあったそう。経済学者の著者が考えたいのは、誰一人幸せにならないような「豊かさ」、つまり数字上の経済成長になど意味はあるのか、ということだ。
これがまた実に納得の展開で、経済学の力を思い知らされる一冊である。

具体的には、序盤では、数字上日本が豊かになっていった2002年から2007年の「戦後最長の景気回復」と、それを数字上帳消しにしたリーマン・ショックに焦点があてられる。「豊かさ」、つまり数字上の経済成長と、「幸せ」がいかにかけ離れているかを、これまた数字を丁寧に見ていくことで示していく。特別な計算をしているわけでもなければ、詭弁を弄しているわけでもない。しかしその手際は鮮やかである。
わかるのは、この2000年代の「景気回復」とされているものはあくまで数字上のものであって、雇用や家庭における消費の増加といった、一般市民として実感のある、実のある幸せを何ももたらさなかったということである。
さらに、その原因が、実質的なレートで歴史的な円安状況にあったことを、これまた丁寧に数字を見ていくことで示していく。企業の収益は拡大していたが、それは製品の質が良くなったからでもなんでもなく、円安を追い風にして、単に安く叩き売りをしていたからだった。


ここまで読んだだけでも、経済学の力を思い知らされるとともに、為替などについてもっと勉強しておきたい欲が出てくる良書であることがわかる。
しかし著者は、敢えてもう一歩踏み込む。すなわち、国際的には、日本経済は生産コストが二割高い。この状況をどうすべきか。それを道徳的な、ある意味「説教くさい」ものに訴えかけた解決策を考えていく。それは、個人がそれぞれ競争に向き合い、「持てる人(既得権者)」はその責任を果たし、身の丈にあった成長をしていこうではないか、ということだ。

Amazonのレビューなどでは、ここのところが、具体的な解決策になっていない、として不評だ。しかし個人的には、サンデルの本の感想でも書いたが、道徳的なところに踏み込まない限り、既得権益でがちがちの現状を動かすような具体的な解決策の優先順位はつけられないと感じている。実際、経済学通りにことが進まない、合理的にいかないのは、人間が合理的でないからだろう。人の成功に嫉妬し、身の丈に合わないことを志向し、カッコをつけようとする。この状況から少しでも全体を良くするためには、特に「持てる人」が、全体的な幸福のために少々の犠牲を払うような自覚を持っていくしかない。経済学に疎い自分が言うのもなんだが、もしかすると、著者は経済学で解決できないもの、理論の限界というものを感じていて、その解決策としてこの本の後半で書いてあるようなことに踏み込まざるを得なかったのかもしれない。

少数の貧困に目を奪われず、組織に安住して得るものを得ている『多数の安堵にメスを入れ(p134)』ようとすること。著者も書いているが、これは大学で働いている著者自身にも確実に刃が戻ってくるような議論であり、普通の覚悟では書けない。そこまでして、読者一人一人に覚悟を迫る著者の考え方は、好きだ。


同時に著者は、「競争に向き合う」という道徳的な解決が、結局はかなり難しいものであろうことも自覚しておられるように読める。それが中島敦の「山月記」を引いたエピローグに良く現れている。著者は大学という職場でよく見ているのだろう。エリートと呼ばれる「持てる人」ですら、自信のない自分を守るのに精一杯だ。そんな状況で何ができようか、という悲壮感すら感じる。

競争に向き合うことのむずかしさのひとつは、人間にとって、こうした「堕ちていく」感覚がなかなかに耐えがたいことにあるのかもしれない。現世に利益のある弱い人間は、手あたりしだいにシキタリと屁理屈にしがみついて、堕ちていくことを是が非でも避けようとする。(p225)

後半は、すべての人に向いているかはわからない。ただ、自分を痛めつけてでも発しようとするこういうメッセージはとても大事だとおもうし、心から共感する。