マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」

今さらといえば今さらな本だが、いろいろと考えさせられるきっかけとして、ときどき本を閉じて考えたりしつつ、じっくりと読んだ。

では、正義と不正義、平等と不平等、個人の権利と公共の利益が対立する領域で、進むべき道を見つけ出すにはどうすればいいのだろうか。この本はその問いに答えようとするものである。(p40)

この問いは、社会とか政治とか大きなことを考えなくても、組織で働いている人間ならば、誰でも立てることができるだろう。誰でも思い当たることがある、集団内での人間どうしの利益の分配をめぐる葛藤。入り口の間口の広さとあいまって、そういう日常的なテーマから哲学の話に持っていく巧さは、さすがに売れているだけある。


さて、ぼくが、この本を読んだ動機の一つも、職場内での個人的利益と集団の利益の相反、という問題へのヒントを得たかったからである。

もっと具体的に言うと、「他人の幸福(自由)を侵害するやりかたで、自らの幸福(自由)を得ることは正しいか?」という疑問である。


ある個人が自分の利益を保とうとすると、他人に少なからず仕事の負担をかけることになる。それは、しょうがないことだし、「おたがいさま」と言えればそれでいい。しかし、「おたがいさま」にならない場合も多いのだな、といまさらながら感じているのである。

大学の研究室という場所にいると、そういう例をたくさん見ることができる。頭のいい人は、他人に負担をかけつつ、「ひとまず自分だけ」幸福・自由を得ることを、極めてうまくやりおおせる。幸福を求めるのは侵害されない権利だ。それはいいとしよう。しかし、それは「おたがいさま」でないと、自分を抑えて協力してくれた相手の気持ちを損なうことになる。それは当たり前だと思っていたが、そうでもないらしい。
というのも、ひとまず自分がうまくいけば、そのあと他人に思いがあまり至らない人もいるようなのだ。「おたがいさま」が通じないのである。理論武装もするから、ちょっと「えっ」と思って返しても、きれいにまるめ込まれる。もはや狡猾といってもいい。その分の仕事がまわってきて、幸福・自由が侵害された人のなかには、そういう狡猾さが見抜けない人もいれば、気が弱くて指摘できない人もいる。

それは言えない人が悪いでしょ?ちゃんと理由もあるんだから、いいんじゃないの?というのが一般的な考え方かと思う。しかし、ほんとうにそれでいいのか?なんかおかしくないか。互いの幸福を考えないのは、利己的ではないか。頭のよさは、もっと違うことに使うべきではないのか…この本を読んでいくと、そう考えさせられるはずである。

この本の言葉で語れば、「頭のよさという才能に伴う幸福・利益は、それをその組織や社会の使命にかなうように用いた場合にのみ称えられる」と個人的には言いたい。でも、これは決して、素直に大学院まで上がってきた人々に最初から植え付けられた考え方ではない。そもそもこういう言い方を理解できない、想像もしたことがない学生は多い。


どういう行為が正義か、を考えるときに道徳を持ち出すと、古くさいとか権威主義だとか言われて、受けはよくない。しかし、そういう道徳とか使命とかいうものに対するアレルギーが、大学という組織のように、個人個人の利益がぶつかりあってどん詰まりになり、問題の解決が妨げられているような状態を生んでいる。

その組織の社会的使命を考え、構成員の行動がそれにかなっているか、どういう行為をたたえていくべきか、について考えていく過程を通さないと、構成員でどのように権利や自由を分配していくか、という問題に答えは出せない。

冒頭の問題に戻ってみる。多くの分野で研究がチームで進んでおり、大学外の人々や他大学の人々とのコラボレーションも重要である現状がある。そうした現状を考えるに、少なくとも、大学の使命の一つとしてある、最先端の研究成果を出していく、ということだけを考えても、ある一人が他の人の幸福を侵害しながら業績を生んでいくことはあまり好ましくない。一人の天才がいればいいじゃないかと意見もあろうが、若くして誰もが認める天才でない限りは、周囲の仲間との協力の上で、彼らの幸福も考えた上で研究を成し遂げられる人間が報いられるべきだと考えられる。科学という、納税者に説明義務を負う仕事を営んでいく限り、自分以外の人間に何か利益を与える姿勢が求められるのである。


もちろん、上で書いたことは、ひとまずの結論にすぎない。結局「説教くさい」道徳的なことの大事さを構成員が理解してくれるかに問題は残る。さらには、道徳的態度は、自分に自信のない人間、まず自分の生存を優先させねばならない人間には強制できないのか、など疑問はさらに湧いてくる。

個人的にも、正義と、幸福の分配については、今後も考え続けなければならない問題であることは間違いない。そして、この本は、そういうことを考えたこともなかった人々に、正義と道徳について考えさせる一つのきっかけを与えてくれる。