マーカス・バッキンガム&カート・ホフマン「まず、ルールを破れ―すぐれたマネジャーはここが違う」

一言で言えば、適材適所、ということだろう。

長年勤めた人が、誰でも部下を管理する立場になれる、というのは間違っている、とこの本は強調する。
特に日本の会社では、よほど専門職として雇われていない限り、長年勤めて力量が上がってくると、部下を管理するマネジメントを要求される立場になる。しかし、人にはそれぞれ才能というものがあり、お客様の気持ちを推し量って営業をするのが得意な人もいれば、技術をみがいて新しい商品を生み出すのが得意な人もいる。しかし、彼ら彼女らがすべて、部下を任せられるのに適切な能力を持っているとは限らない。
そうした専門的な仕事が得意な人には、そうした長所を伸ばせるような処遇をすべきだ、と言っているのがこの本である。


そうはいってもね…という言葉が思わず出てきてしまう。今は、一生営業とか、一生一技術者とか、一生ポスドクというのが許されづらい組織がおおい。そういう技術は、非常勤の人をお金で雇えばいいじゃないか、と思う経営者がおおからだ。人を動かせる立場にならないと一生食べていくのは難しい、ということだろう。
自分としても、この「人を動かせてこそ仕事」という考えはもっともだな、と思っていた。でも最近少し考えが変わってきた。


できない人には、できないのではないか。どうしても、自分の殻にこもってしまう、自分の範囲のことにしか興味がわかない、という人がやはり存在する。それを、どうこうしようとするのは、よほどその人が素直か、隠れた才能が見えている時以外は、時間の無駄なのではないか。
そうした人々が、自分のできる範囲で楽しく仕事ができるような雇用体系をつくれるなら、マネジメント能力などつけなくても、いいのだ。この本では、「一生一営業マン」でも、すごく能力があれば、マネジメント層の人よりも給料が高くなるようなシステムにすべきだ、と提案している。もっともだ。


人材流動化とかいうのをうまく働かせるためには、社会として、そういう、人の能力に対してのすっぱりとした見切りをすることが大事なのかもしれない。みんなが人の上に立てるわけでないなら、それは認めてしまって、そういう人でも人の上に立つ仕事をしている人よりも給料をもらえる可能性ができるようなシステムにすべきなのだ。
しかし、言うは易しで、現状は、どうにもそういうシステムに変えていけるようなイメージがあまりわかない。任天堂の宮本さんではないけれど、よほどの飛び抜けた能力を持つことが周りからもはっきりわかるくらいでない限り、風通しの良い会社であっても、開発に専念してくれ、と特例を作る方向にはなかなかならなそうな気がする。

言っていることはもっともで、自分の実感ともとても良く合う。しかし、どうしたらいいものやら。