内田樹「街場の大学論 ウチダ式教育再生 (角川文庫)」

説明不要のウチダ先生による、大学論である。

大学「論」とあるとおり、大学の現状について論じ、将来像について語り、学生数を減らして教育の室を高めるべき、といったことをいろいろと提案なさっている。のみならず、他の(著者が勤めている大学以外の)大学への批判も展開されている。偉い(というのは失礼なものいいだが)のは、そうした提言が、高所に立ったものではなく、自分がまさに大学に勤めていて、そこの経営を少しでも良くする責任がある、という立場に立ったものであることだ。他大学の批判にしても、その真意は、「私の勤めている大学ではそんなことはやらせない、やらない」という思いに貫かれている。
当たり前だって?いやいや、ウチダ先生くらいに書くものが売れれば、別に大学にしがみつく必要はないし、教育を懸命にやって大学内での覚えが良くなる必要もないだろう。この方は、「まず隗より始めよ」の精神から大学について考えているように思われる。この本の中でも、多くの会議に出て自分の大学のために発言しては批判され、学生の面倒を見て…と愚痴りながらも多忙に大学のために働いておられる様子が見てとれる。そうした大学の仕事の多さと面倒さ、生き残りのための大変さはとてもよくわかるので、たいへんなことだ、と思わざるを得ない。しかし、そういう、自分の仕事をちゃんとやってその上で責任を持った発言をする、という簡単なようで難しいことを律儀に考えてやっていることこそ、彼が大学に関して発言するものの信頼できるところである。


もう一つ、この方が好きなのは、次のようなことを書いてしまうことだ。「文化資本による社会の階層化」(これ自体についてはここでは深く考えない)に反対する際のひとこと。

別にしかるべき社会理論があって申し上げているのではない。私の身体のDNAが「そういうのって、好きじゃないんだ」と私に告げるのである。(p145)

ブログにしてもなんにしても、人を批判するときの手段として、どういう発言にも論理性を求める傾向が強まっているように思われるが、この人はこうして書いていて平気である。もちろん、そう書きつつもそれなりに説得力のある説明をなさるのだが。それでも、誰しもが簡単に批評できるからこそ、こうして開き直って自分の意見を楽しませるように書いていくスタンスは好ましく感じる。
つい先日読んだ著者のブログの文章(「 才能の枯渇について」)にしても、個人的にはしごくもっともだとしか思われないのだが、いろいろと、意味がわからないとか論理的でないとか思う人がいるようだ。偏った考えというのは、結局わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。だからこそ、周囲の声に左右されず、柔らかい言葉で、とにかく自分が伝えたい言葉を伝えていく、というスタンス。こうした部分はまさに物書きの一番楽しいところだろうし、僕が著者の文章を読んでいて楽しく思うところでもある。それが、大学という著者の職場についてであれ、大学生を教育する立場から書かれた文章であれ、自分の立場を離れないで責任を持とうとする意見だからこそ、なおさらそう感じるのである。

…と思っていたら、あとがきで『大学の教師という立場から教育論を発表するのは、これが最後になりました。(p342)』とあった。だからといって、この本や他の本で述べていることが無責任になるわけでもないし、その価値が減ずるものでもない。これからも著者のような、現場で苦しみつつ責任を果たそうとしつつ、自分の身をさらしながら発言する人がいてもいいのではと思う。


そしてまた、今回も、ときおり炸裂する名言を目にして、おお、と思うのがまた楽しい。最後に一つだけ、おもしろくも辛いやつを引用して終わりにする。

「おっと、こうしちゃいられない」
地獄への道はこの言葉によって舗装されている。これは長く生きてきてわかったことの一つである。みんなそうつぶやきながら破滅への道を疾走していった。(p88)