立川談志「人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)」

立川流家元、立川談志が、自分の人生を、聞き手の吉川潮さんに語った一冊。

読んでいて一貫して感じるのは、ほんとうにこの人は、タイトルにあるように人生を計算してやってはいないな、ということだ。だから、単なる偉い人の成功譚みたいに教訓くさくならない。でありながら、成り行きの人生を通す筋のようなものがはっきりしていて、一つ一つの決断にそれが濃く反映されている。さらに、どこか偉そうに聞こえてしまうような話ですら、かならず笑わせるようなオチをつけてくれる。痛快である。


実際に高座を聞いたことがないのにどうこう言うのも全くもってなんなのだが、この人はすごいなと思う。
帯にあるように『落語はおれにとって小さすぎる』と感じるまでに至った腕を持ち、ファンも多く持ちながら、かつ、自分を超えて次世代を拓くような弟子を数多く生み出している。落語家のみならず、芸人としてうまい人はたくさんいるだろう。弟子のようなものを持っている人もたくさんいるだろう。しかし、自分を超えてしまうかもしれない、次世代を拓けるような弟子を生み出せてしまった人はこの人以外になかなか見出せない。


名選手必ずしも名監督ならず、と言われる。一方で、やっぱり真に頭のいい人、人間観察の優れた人は、それができるのだ、と思う。自分が修行時代に違和感を持っていたこと、師匠とやりとりしたこと、などをきちんと覚えていて、自分の弟子に生かしているのがこの本からもよくわかる。
記憶力のよさは、そういうところに効いてくる。多くの人は、成功したとき、上に立ったときに、自分のやられたこと、自分が成功できた理由などを、案外さっぱり忘れてしまうのかもしれない。自分より後まで生きる人間に、自分のエッセンスをちゃんと伝えていくのは、ある程度成功をおさめた人間の責任である。それを、野暮じゃないやりかたで、きっちりやっているのがこのかただとおもう。世間的に見られる「毒」のイメージと全く違う、弟子を心優しく見ていく姿が浮かんで、心に残る。


芸とか、頭の良さとかいうものは、その人が死んでしまえば雲散霧消してしまう。この本でも何度も出てくる名人、古今亭志ん朝さんが亡くなったときに、そのことを痛感させられた人も多かっただろう。いっぽうでこの本を読んでいると、やはり自分より下の世代に何を残していけるか、だなと思う。
この本の最後に一番弟子の志の輔との対談がついているのだが、こんな部分がある。

志の輔 師匠が立川流を作られた時、「なるようになれと思った」とよく仰いますが、少し落ち着いてから、ゆくゆくは立川流がこうなればいいなと考えたと思うんです。その時の青写真と、二十五年たとうとしている今の現実と、誤差はありますか?
談志 ないよ。お前が埋めたんだ。(p281)

どうですか。かっこいいではないですか。死ぬまでに一度でいいから、こういうことを言えるような弟子、下の世代の人に、めぐりあって一緒に成長してみたい。


同時に、家元はそれでは満足してはいない。いまだ、老いと向かい合いつつ、もがきつつ落語と取り組もうとする師匠の姿に、感じ入らない弟子がいるだろうか。
自分の芸を極めていく。自分と、弟子を生かしていくためのしたたかさをもつ。言葉だけじゃなくて、ちゃんと実行する。そして、少しでも上を目指して、死ぬまでもがく。
笑って読みながら、少しでもこういうふうになってみたいな、という憧れをたくさんもらえた。よかったです。