開高健「夏の闇 (新潮文庫)」

何らかの振り返りたくない体験を経て、人生に「すりきれかかっている」主人公と、孤独を抱えつつ精気に溢れた女。久々に再会した男女の、海外でのひっそりとしたひと夏の生活。

底辺に近いところで働きながら、博士号をとろうと勉学にいそしんできた女がこれまでに抱えてきた鬱屈とした気持ち。それをなんとなく理解していくにつれ、女が落ち着いてしまうことへの恐れを抱き、彼女のそうした気持ちになるべく触れないようにする男。互いのやりとりの奥にある、互いを求めながら自分のことだけ考えていたいような感情が、なんとも濃い空気で描かれている。

互いの気持ちにあまり触れたくない、自分が自分だけで見たい世界がある。一方で、また別な理由から、人は他人を求める。それにつきまとう、互いにいっしょにいること、気持ちをぶつけあいさぐりあうことの面倒さ。徹底して背景に流れるそうしたものに、全てがそうではないにせよ、自分と周りの人間関係の一部をどうしても重ね合わせてしまう。
物語が終盤に向かい、女が男へ長い独り台詞を吐くあたりで、ここまでじっとりと二人の暗い生活を描いてきた意味がわかってくる。表面上ではわからない互いの気持ちが浮かび上がってきて、それが胸に痛い。

舞台は、ドイツだろうか。その倦怠感を含んだ、雨くさい濃い空気は、だいぶ文体は違うが、少し前に読んだ金子光晴をふと思い返してしまう。ドイツの街角からベトナムの風景を想像する。その、両方の土地に行ったことがないのに感じる描写の違いと現実感が、またよい。

酒、うまいもの、魚釣り、というイメージで実際にその書くものを読んだことはなかった開高健。その滋味あふれる文章を読むのは、たしかに、おいしいものを食べるのと同じようなよろこびがある。