富永茂樹「トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)」

革命後のフランスに生まれ、アメリカを旅して『アメリカのデモクラシー』を書いた思想家、トクヴィル
〈私〉時代のデモクラシー」という本を読んだ時に、気になっていた。革命や、アメリカ合衆国の成立を経て、人びとが平等になっていくと彼らはどのように考えるようになるか、について考え続けた彼が、どのような背景からそうした思考を展開していったか。著者の導きにより、当時の他の思想家たちの考え方などと比較しながらトクヴィルの著書を詳しく読み解いていくのは、頭が整理されるうえにいろいろと考えさせられてとても刺激的である。

『社会が画一的になるにつれて、人はどんなにわずかな不平等にも耐えられなくなる(p55)』という言葉にもあるように、平等になればなるほど、人は小さなことに憂鬱を感じるようになる。利益を求めれば求めるほど、得られないことに落胆し、他者を妬むようになる。
そういう気持ちがアメリカの人びとに潜在的にあると考えたトクヴィル。平等の拡大が人びとにもたらす思考の変化を見つめていた彼は、社会というより、その構成員である人間の気持ち…欲望や嫉妬といった感情にとても敏感な人だったのだろう。『アメリカのデモクラシー』というタイトルからの印象よりもずっと、人間くさいことを考えていたのだと感じさせられた。

不平等に堪え難いぼくらは、しかし、そうした憂鬱な平等の時代を受け入れなければならない。トクヴィルはそうした時代でうまく人間が生きるのに、宗教や名誉、伝統など、人間の思考にある程度の枠をはめる「形式」のようなものが必要とされるのかもしれないと考えた。
それも、わからなくはない。しかし、そうした若干古い「形式」以外に、もっと誰もが受け入れやすいかたちの、平等を支える倫理があってもいいのではないか。
個人的には、こちらでも書いたが、それがあるとすれば、ある程度気持ちや生活、立場が充足した人が、「私はある程度他の人に「与える」側なのだ」、と自覚する使命感のようなものなのだろうと感じている。たまたま自分がいい立場に立てた、しかしそうでない人もいる、という運命への敬意を持つこと、といってもいい。強制することではないだろうが、そういうものが大事なんだよ、という雰囲気を広げていくのが大事なのかもしれないな、と思う。

平等と憂鬱について、個人と社会の利益について。簡単な処方箋はないが、そういうことについて考えさせてくれるのが、トクヴィルの現代に通じる新しさなのかもしれない。