原武史「滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)」

40年ほど前の、都内のある新興住宅地の小学校。「自由で民主的な」共同体をつくる、というイデオロギー的な思想を打ち出す教師のもと、学年どころか学校全体にも影響を及ぼしていく一つのクラスがあった。班活動と連帯責任、林間学校、集団遊び…。それら一連の活動に言いようのない息苦しさを感じていた著者。大人になった著者は、小さい頃に感じていた違和感を明確にするため、当時の同級生を訪ね話を聞くとともに、自分の記憶を掘り起こしていく…。

演説で自分の班の役割を主張し合い、議論のすえ、挙手でふさわしくない班を選んでいく…というような描写は、ノンフィクションとは思えない、現実ならではのおぞましさがある。もちろん、当時の同級生の全てが取材に応じているわけではないだろうし、著者の思いと記憶の強さもあるだろう。しかし、いわゆる普通の小学校で、このように息苦しい教育が行われていたことは、時代というのもあるだろうが、何とも言えない恐ろしさを感じる。

班を作って責任を持たせる。自主性を重んじると述べつつも向かわせる方向は徹底した集団主義である。自分の親をはじめとして、ある世代の人がアレルギーをもっているのはこういうやりかたか。そういう時代を過ぎてから教育を受けたわれわれにはある意味で新鮮、かつ勉強になることだらけである。現在の都政の偏り方からすると全く逆な考え方がここに見られる。それは何となく滑稽な風景である。


この本に貫かれているのは、単に著者の左翼的なものへの反感ではない。そういう思想の問題ではないことがこの本のテーマを、普遍的なものにしている。

もし私が今小学校6年生であれば、おそらく七小でも行われているであろう「君が代」の斉唱の強制による愛国心の育成に対して、同じように抵抗しようとするはずである。そしてその体験もまた、私にとっての原典と記憶されることになるに違いない。(p249)

客観的に見た時に、著者が体験したものには、愛国心の押しつけと同じ要素があった。それは、戦時の集団主義の怖さとも類似していたのである。どんな組織にも潜在する脅威。どちらにも振れずに、自由と規律が両立した組織を保っていくのはとても難しいことだ。それは、大人になってなおさらわかることだ。


読みながら小学生だった頃のことを思い出す。この本に出ているような部分が全くないこともなかった。そういう土地でもあった。ただ、それが極端に振れなかったのは、人生経験が豊富で、人間の汚さだとか人生の面倒さをどこかで知っているような先生がいたからだろうと思う。誰もが小さい頃の教育にある程度自分の原点があり、この本の著者もそうだとすれば、極端に振れず、どちらの考えも包み込んでいたような僕の「原点」は、実に幸せなものだった。

時おり、脱線どころではない密度と詳しさで出てくる鉄道話がたのしい。小さい頃の著者にとっての逃げ場だったことがよくわかる。