保阪正康「田中角栄の昭和 (朝日新書)」

いかなる分野であれ、大きな仕事をしていこうとするとき、多かれ少なかれ、政治的な動きは必要になる。それは、誰かに何かをやってもらうこと、動いてもらうこと、である。
ぼくでなくても、ある程度仕事をしてくると、よほど自分一人の才能に溢れる人でなければ、そういうことを考えざるを得ない、と思う。そして、金が絡むことかどうかはあるだろうが、才能だけでやっていける人には忌避すべきものでしかない、少々うさんくさい「情」だとかそういうものも「政治」にはある。

できればストレートに、素直な言葉と実力主義だけで仕事をしていけたらいい。でも、「政治的なもの」を認めないと突破できない部分が社会にはある…そんなことを考えているうち、いわゆる「政治家」として、田中角栄という人が思い浮かんだ。
新潟から出てきた彼が、昭和という時代にどういう立ち位置で政治を行い、人びとにどう見られていたのか。彼が支持され総理大臣になれたのはなぜなのか。もはやリアルタイムで見ていたわけではない自分の世代にとって、それを知ることは、「政治的なもの」と向き合うのに何かヒントになるのではと思われた。


太平洋戦争について多くの著者をものしている保阪さんは、この本のあとがきでこのように書いている。

私自身の田中角栄観は、この社会に多いタイプとの見方である。これまでの人生で田中的人物になんどか会ったとの思いがする。…(中略)…現実的利害に関心をもつ人物は一様に独自の人生観をもっていることに気づく。「あれこれ口でいっても仕方がない。まずは実行ですよ」などといった言を好むのだ。私はこういう人物を田中角栄的と思ってきたが、大体はこのような人物こそ成功者の範疇に入っているのも事実なのである。(p396)

この本で示される、自らの利益に忠実な、重みをもつ思想や理念を持たない、率直で大胆ながらどこか薄っぺらい人物としての田中角栄。率直さや大胆さが日中国交正常化などにプラスに働いた面もあるにせよ、立花隆らによって暴かれた彼の金権的体質を人びとは嫌い、批判した。
しかし、それはまさに昭和という時代の日本人の正直な姿を写した鏡なのだと著者はいう。実行力と大胆さで、自分のところにお金を持ってきてくれる彼を当時の人びとは歓迎し、自分の国の成長を託した。それはまさに、自分の求めているものがそこにあったからなのだ。

今の経営者などの成功者の中にも、払拭しがたく存在しているだろう、田中角栄的な考え方。自分のいる大学でも、政治向きの人の中にはそういう考えがきっちりとあることは、認めざるをえない。


ぼくを含む、田中角栄をリアルタイムでは見ていない世代は、政治的なるものとは距離を置いた、人と人との関係で未来は作れると思っているところがある。一方で、政治的なるものがしっかりと埋め込まれた成功者が、依然として社会で活躍しているのも確かだ。それには、汚い言い方だけども、人間の欲望だとか情を踏まえてそれにつけ込んだほうが仕事が進む、という実践的な理由があるのだとぼくは思う。それを乗り越え、そういう考えを払拭して新しいモデルを作るには、僕らはもう少し、政治的なるものについて、知っておいた方がいいのではと思うのである。
そういう入り口として、この本はおすすめできる。歴史記述家ならではというか、決して一方に肩入れしないような冷静な書き方がまた、読むものに何かを考えさせてくれていい。