最相葉月「星新一〈下〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)」

上巻の感想はこちら。下巻は、ショートショートで有名な星新一が、作家となり名前が売れて後の生涯をたどる。

消耗品にはならない。なりたくない。それは、ひとたび多くの読者をもち、自分の作品の多大なる影響力にうち震えた経験をもつ作家の背中に取り憑いた妄執でもあった。(p368)


ひとたび売れること、有名になるということは、それだけまた苦悩を背負うことであるのだろう。


自ら切り開き生み出していった、現実に生じていない、想像力を働かせる物語。そうした作品群への、個人のリアルな心情を吐露するような文学に慣れた世間からの不理解。
自らの得意な作風が、続けていくうちにマンネリと化すこと、そう思われることへの恐れと、それでも書き続けるという戦い。
誰にでもわかるものを書きたい、という思う心とは裏腹に、書いたものを「子ども向け」と評され、軽んじられるさみしさ。


大企業の御曹司というある意味強迫的な立場から、自らの道を探し、工夫と努力を重ねて作家という道を見出した星新一を、その後も襲う苦悩。
子ども向けとも思えるような寓話が数多く残されている一方で、「明治・父・アメリカ」「人民は弱し 官吏は強し」など、経営者であった父について書かれた一連の本の冷静な筆致の奥にある、熱のこもった力強さは自分にとっても不思議であったが、この評伝を読むと、その両方を書かざるを得なかった気持ちがなんとなくわかる気がした。


自分より年上の作家がいない場で、一人たたずむパーティーの様子など、自分の世間から思われるようなイメージを自ら作り、ある意味逃れられなくなってしまった作家の晩年の姿は少々さみしく哀しい。
しかし、あとがきまで読み、「子供をばかにしてはいけない」と簡単な言葉で語り続けた彼の思いがきちんと次の世代にまで生きていることを感じると、ほっとした気分になれる。

人間は、自分の仕事を後世に残そうと思ってそのとおりに残せるものではないだろうが、ある強い思いを持ってなされた仕事は、いつになるかはわからないが誰かが必ずわかってくれる。そう信じられる読後感だった。