宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)」

おもしろかった。
政治思想史の研究と、現代を表わすような本や考え方を読み解いたものがうまくかみ合っていて、現代の「デモクラシー」が困難な状況が説得力のあるかたちで浮かび上がっていると感じた。
これから、自分のいる場にどう生かしていくべきか、を常に考えながら読んだ。

帯には「個人化が進む現代社会で<私>と政治の関係を考える」とあるし、タイトルも「デモクラシー」とついているので、メインなテーマは、私たちの政治参加についての本だと思われるかもしれない。実際、4つある章のうち、第3章などは、小泉政権からの政治の貧困とも言うべき状況について考え、これからの政治参加のありかたについて考えている。

しかし、この本の語りかけていることは、自分の今の問題意識と非常に重なるところが多いと強く感じた。そしてそれは、上に書いたような、日本における政治参加とか、そういう問題とはまた別なものであった。


簡単に言うとそれは、集団における、特に、誰もが多くの時間を過ごす職場や仕事のチームにおける、公共の利益と個人の利益という問題である。

長期的な、公共の利益を増やしていけるような方向づけがなければ、集団で何かを作ったり仕事をする意味などない。みんなで話し合って方向を見出していこうとする「デモクラシー」の意味もなければ、社会を作る意味もない。
…大げさに感じられるかもしれないけれども、多くの仕事をする集団は、集団でやっている意味を十分に発揮しているだろうか。みんなが平等で、かけがえのない、自分にしかできない仕事をしたいと考える方向が強まっている現代において、長期的な視点で、集団を高めていこうとできている職場がどれだけあるだろうか。
ぼくはこの本に引かれてしまったのは、特に、自分が今いる大学の研究という社会においては、こういう問題がかなり露骨に出てしまっており、なんとかならんものかといつも思っているからだと思う。しかし、こうした問題意識は、企業で仕事をしている人ともかなり共通するところがある、と友人や年上の方と話していても感じることが多い。多くの働く人のなかで「個人化が進む現代社会において「集団の利益」を求めることの可能・不可能について」という問題意識は、けっこう高いと感じている。

この本では、アメリカの政治思想家トクヴィルの述べたことをきっかけにして、家族や宗教などの規範が崩れ、全ての人が互いに平等だと感じる時代において、私たちがどのようにデモクラシーを保ち、社会を発展させていけるのか、について考えている。それは日本という社会を良くするための狭い意味での政治への参加について考えることでもあるとともに、各々のまさに生きている集団である職場や地域の集団をどのように「個人の利益追求」とぶつからないように運営していくべきか、ということについて考えることでもある。

社会的な問題が「自己責任」に帰せられやすく、参照すべき対象やモデル、過去の伝統がない現代社会。それぞれに利益を追う個人が団結するのは難しく、それがなおさら「他人と平等だけどどこか孤立している」個人をつくってしまう。そうした感覚が、他人を排除してしまう動きや、手っ取り早い「平等な感じ」を得ようとする動きにつながり、社会の長期的な利益を損ねてしまう。この本では、そういう現代社会の様子について、昔の思想家とともに、日本の空気をうまくつかんで良く読まれた最近の本なども引用しながら考えていく。実際に、書かれているような「自分のかけがえのなさ」「いま、この瞬間の利益」という考え方を持っている同年代の人は実感としてとても多いと思うし、この本の捉えている<私>時代という現代の風潮については、非常に納得がいくものだった。
だから逆に、トクヴィルの、「正しく理解された自己利益」論などは、頭が良くても「正しく理解」するのがいかに難しいかについても実感としてわかるので、とても納得しながら読んだ。それほどまでに、かけがえのない<私>という概念へのこだわりは、本来そのほうが利益が得られるような行動ですら、とれなくしてしまう。悲しいことだ。


最後に、ではどうすればいいのか、についても触れられている。

自分が尊重されているという実感を得られないでいる個人は、自分をそのような状態に置いている社会を認めようとはしません。しかしながら、社会が自分を尊重してくれるからこそ、自分もそのような社会を維持・発展させていく倫理的な義務をもっている、一人ひとりがそう思えるときにはじめて、社会は可能になります。(p187)

ぼくは、すごくよく理解できた。そうしていく義務があるとも思っている。しかし、「尊重されていない」と感じていて、それから一歩も先に進めないだろう人もたくさんいることもよくわかる。そういう人にとって、やはり社会はあまり意味がない。ここが、結局堂々巡りであるように読んでいて感じた。誰もが、自分はまだまだ尊重されるべきだ、と感じていて、互いを牽制し合っているとしたら、どうすればこの状況を打開できるのだろう。

著者は、現代の平等な社会においては「ノブレス・オブリージュ」は成立しないと述べている。それでも、ぼくはやはり、「ノブレス・オブリージュからしか、この互いに「俺を尊重してくれ!」と叫び合う状況は打開できないのではと思う。しかし、この場合「ノブレス・オブリージュ」を発揮すべきなのは、お金を持っているのでも権力を持っているのでもなく、「自分は社会に尊重されている」と少しでも自信を持てる人から、なのだろうと思う。理想論だが、社会やある集団において、一定程度成功していたり充足していたりして自信がある人が、ある程度以上の割合で、社会の利益を考えて動く時に、少しずつ、その集団は変わっていけるだろう。

もちろん、この考えとて今ふと思いついただけだ。自分の過ごす社会や集団のなかで、どう動いていくべきか、どういうふうに同意を築いていくべきかについては、一生考えていくべき問題なのだろうと思う。