金子光晴「どくろ杯 (中公文庫)」

すごい本を読んでしまった。

一人の詩人が、男女関係のごたごたと日本での逼塞感から、意を決して夫人とともに中国へと渡る。これが、その後5年にもわたって世界を回る放浪生活のはじまりだった…。

昨年末に出た「BRUTUS」の本の特集で、金子光晴の自伝を山崎ナオコーラさんが紹介していたのがきっかけで、読んでみたのだが、これはたしかにすごい。

この詩人がおじいさんになってから昔のことを思い出しつつ書いているこの自伝は、そのいきあたりばったりである意味破滅的な毎日の様子もさることながら、そんな回想のなかに、実に自然に、感慨を込めた詩的な文章がまぶされている。それが、とてもいい。あまりに人生の痛いところを突いたような名言だらけで、付箋をいっぱい貼ってしまった。たとえば、上海で、お金を稼ぐことの苦しさをいやというほど味合わされた際のひとこと。

憤懣は、おもいがけないほどいろいろなものに、その対象がつながっていた。自分の今日のこうしたありかたや、じぶんの微力や、切っても、突いてもどうにもならない、手も、足もでない圧力の壁や、日本でのくらしや、世わたりのうまい奴や、しゃあしゃあとしてのしあがってゆく奴や、のほほんとした奴や、高慢づらな奴や、そんな奴らのつくっている、苛性曹達のような、稀塩酸のような、肌に合わないどころか信条のうす皮がちぢくれあがるような日本での生活の味が一束になって、宿怨となり、胸のつかえとなっているのが、そのときの憤懣と一つになって、突破口を作らねばいられない、ぎりぎりな気持ちになっていた。(p171)

人間の汚さ、残酷さ、その合間にときおり見えるぬくもり…。はぐれもの、「食いつめもの」が集まる上海、中国で彼が見た人間の姿。わずらわしさを避けたいと思いつつ、依存しつつもたれ合う人間関係。
中国行きのきっかけが、彼女を恋人から引き離すため、だったりする彼自身が、どこかそういう混沌とした部分を持つ人間で、人を苦しめたり、そういう場面を見て楽しみすら覚えていたりする。そんな自分を振り返る彼の言葉を読むのは、実に濃い時間だ。
人間は業の深いもので、そもそもだめだめなものだ、自分とてそういう人間の一人だ。
…そういうことを認められない人には、あまりおもしろくない本かもしれない。自分をかっこよく見せることなどない。きれいな物語などない。そういう、偽りのない、と感じられる言葉が、全体から溢れている。こういうのを読むと、日常のなやみがあまりにもちっぽけに思えてくる。読書とは、こういう瞬間を求めているのだな、と感じられる。

まだ、あと二冊つづきがある。それが、一つの楽しみになっていることに気がついた。