大塚英志「大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)」

マンガを教える大学を作り、さまざまに工夫をこらして学生に教えた経験から、大学のできること、教え教わることについて著者が考えたエッセイ。著者は、大学という場所で教えることを、とても楽しんでいるように読める。

ぼくが大学という場所がいいなと、思うのは「論理」を実際に経験する、文字通りの実験的授業ができるところだ。(p98)

この言葉にハッとさせられる。マンガでも、社会学でも、環境問題でもいいのだ。教える側自身が、その問題について深く考えてきたことを、その思考の過程を追体験してもらいつつ、一緒に考えるきっかけを与えようと工夫した講義は、学生の心に必ず何かを残すだろう。それを、どういうかたちで、どういう「論理」や哲学を教えるかは、教員一人一人の心持ちと熱意にかかっている。

まずは描くための方法をみっちり教える、映画などの近隣メディアとのつながりを考えさせる、などの著者の方法は実に芯が通っていて、おもしろい。同時に、教える内容の前に、教える側がどういうことが大事と思うか、という哲学がなければいかん、ということを思い知らされる。

この本は、とっちらかったように著者が多様な側面から考えてきた、教えること、教わること、大学でできること、についてのアイディアに満ちている。ひっかかりがたくさんあって、たくさんのことを言いたくなるのがおもしろい本だとすれば、これはそういう場所が実にたくさんある本だ。それは必ずしも教育論だけでもなくて、創作することについて、それを世に問うことについてや、自分の考えている衝動をどういう形にするか、という話だったりする。

この本での例はマンガであるが、誰しも、最初から表現したいことが明確になっているわけではないだろう。マンガは描きたいと思っていても、どういうものを描きたいかはわからない。研究はしたいと思っていても、何にフォーカスしていったらいいかはわからない。でも、そんなもんだ、と著者は考えている。

ぼくも、そうおもう。例えば自分のことを振り返っても、最初から表現したいこと、やってみたいことがあったわけでもなければ、この本で言う「こちら側」にいた、つまり、プロとして覚悟を決めるべき心持ちに達していたわけでもない。ものになるのかならないのかよくわからない悪戦苦闘を繰り返して、自分の道を何となく見出してきたのかもしれないな、とふと思う。
この本でもうひとつ、民俗学における師弟関係の話が出てくるが、そこにも見られるように、こうすればプロになれる、というテーマや道筋を、師匠が必ず示せるとは限らない。義務教育までとは違う学問や芸術というのは、どうしてもそういう先行きが不透明な部分がある。
だからこそ、先に進んでいけるための論理や考え方、方法をいろいろなやりかたで教え、彼ら・彼女らのなかから熟成されてくるものをあたたかく見守れば良い。うちのボスがよくいう、気持ちに反して無理にひっぱってはいけない、ということばは、誠に、学問をいかに教えていくか、という方法をよくあらわしているのかもしれない。

大学における教育と研究の両立は難しい。しかし、ほんとうは、研究というのはある問題について深く深く考えることだから、それを極めた人はその論理を経験させるような講義を考えることができるはずなのだ。そしてそれが世の中に出て戦うための武器になるようなものを与えてあげられるはずなのだ。それにはもちろん非常な手間がかかるだろう。しかし、一人の大学教員がこの本でしていることの10分の1ずつでも、「あとの人生に残るような何を体験してもらえるか」を考えることに割いたら、ずいぶん状況は変わってくるかもしれない。

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三」を昨年読んだところだけに、著者が大学時代に学んでいた「ミンゾクガク」に関するエピソードにたまらなく興味をひかれた。どんなバックグラウンドでも、何かを先生が伝えようとしていて、教わる側が生かそうと思えば生かせるものなのだな、と思った。誰にでも、その本筋からは逸れてしまったが後の人生に生かせる「○○ガク」があるといい。
著者には民俗学関係の本もあるようなので、今度はぜひ読んでみたい。
佐野眞一「旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)」 - 千早振る日々