遠藤秀紀「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥 (光文社新書)」

解剖学を通じて答えのない学問に切り込み続けるこの人が帰ってきた。成果主義に振り回される私たち研究者への力強い言葉とともに。

二十一世紀初めの日本社会を雇用不安や低い賃金や年間三万人の自殺者で味付けした行革狂いの政治家にとって、答えを出さない学問や答えを出さない大学教員など、真っ先に淘汰すべき対象だろう。だが、残念だが、学者も学問も、資本主義を勝ち負けと拝金でしか受容できない為政者ごときに、滅ぼされはしない。(p66)

「解剖男」など三冊の新書が、あまりにも魅力的かつ情熱的に、ヒトも含めた動物たちの身体の謎に迫っており、その文体も含めて一発でファンになってしまった。一般向けの本でも細かい遺伝子の働きなどが解説されることが多い最近の科学本のなかでは、実際にメスをふるい動物の身体に迫るそのオリジナリティーは他に例えようもない。

今回のテーマはニワトリ。これまでの新書に比べると実際の骨や遺体の写真は少ないが、一つの家畜がここまで愛されるようになるに至った過程を、その歴史や民俗的な側面も含めて学際的に語る。
卵と肉の生産を分け、経済性を突き詰めて改良され、世界中で食材として愛されているニワトリ。その裏で、多くの伝統的な品種が失われようとしている…。この図式は、ジャガイモなど、さまざまな穀物で起こっている現象とも似ている。経済性だけで家畜(穀物)を語ってしまうことで失われることがある。その家畜(穀物)が選ばれ愛されてきた経緯、人間との関わりや文化について考えていくことが、おそらく将来もそれらとつき合っていく人間としての責任でもあるだろう。

すばらしい絵とともに、世界のニワトリの品種が紹介されるが、それだけでなく、江戸時代に、朝顔とともにニワトリ育種が盛んだったという事実と、そこで生み出された品種の数々は実に興味深い。また植物にひきつけてしまうが、江戸時代の変わり朝顔の育種は有名で、その写真を見ると、なんでまたこんなものを作ったのか、というような変わり者がたくさん存在する。同じことが動物にも行われていたとは驚きであった。また、同じような育種が海外でも行われていること、偶然にもそのようなものを選んでしまう人間の心の傾向(著者のいう「エネルギー」)もとても考えさせられた。

著者の本を読んでいると、解剖学の、もっといえば現場で実際に生き物を見る学問のおもしろさとそこからわかることの豊穣さが圧倒的に迫ってくる。例に違わず生物の遺伝子を中心に仕事をしている自分には耳が痛い言葉もあるが、常に、マクロなものを見ること、現場を忘れないことの大事さを意識しながら仕事をしていきたい。せめて、最終章に書いておられるような、学際化、さまざまな学問領域とのつながりを考えながら自分の研究を位置づけていく姿勢は大事にしたい。これは、分子生物学から社会学までさまざまな研究者のリンクを見せてくれた「インフルエンザ21世紀」でも痛切に感じたことだ。

現在の著者の職場である博物館に足を運べば、3月末まで、著者が現地で手にしたニワトリのご先祖さまである、セキショクヤケイを目にすることができる*1。静かに横たわる彼らはとてもおとなしく見えるが、著者が書いているように扱いにくく飼いにくい鳥であったことをイメージすると、その対比には不思議な気分にとらわれる。そのカラフルな色、よくイメージされるニワトリとの違いを目にして、どれほどの人間の営みが関わって現在の食卓の卵や鶏肉になってきたかに思いを馳せてみるのも悪くない。

*1:ちなみに、現在行われている展示も著者が手がけたもので、これまでの本に出てきた骨が満載でなんとも名状しがたい気分にさせられる。おすすめである