堂目卓生「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)」

この人といえば「見えざる手」という言葉しか知らなかった。規制をなるべく取り払うべきだ、市場に任せるべきだ、というイメージ。それは、経済や市場について語る学者の人が使っていた言葉のイメージでもあった。実際の彼はどういうことを言っていたのか?…そういう興味もあって、昨年話題になったらしいこの本を読んでみた。

商業と植民地政策を重視する重商主義を批判したこと、人間の労働が価値を生み商品の価値を決めるという労働価値説を唱えたこと、などは基本なのだろうがはじめてしっかり勉強した。
そのせいか、読んだときに「おっ、マルクスじゃないか」と思ってしまったのはまさに無知のなせるわざ。これが、マルクスにも影響を与えた近代経済学の基礎であったのだ。

そういったアダム・スミスの提唱した議論が、『国富論』以前の『道徳感情論』での思想に基づいているという視点がこの本の新しさなのだろう。そもそもアダム・スミスの考え自体をはじめてきちんと学んだものにとっては、何が新しく何が本書を有名にしたのかはあまりわからなかったが、徳とルール、公正性を説く『道徳感情論』について詳しく読み解いた部分は面白かった。そして、それが『国富論』の分かりやすい導入部となっていると思った。

特に『道徳感情論』のくだりで考えさせられたのは、第一章の「秩序を導く人間本性」のところだ。少し長くなるが、思ったことを書いてみる。
スミスによれば、人間は「胸中の公平な観察者」…簡単に言うと「他人の嫌がることはやってはいけません」と自らに言うような存在…の判断に従うべきだ、というところから義務の感覚を養う。その主たるものが「正義」と「慈恵」なのだという(p56)。正義は、他人を傷つけることをしないこと。慈恵は、他人の利益を増進することをすること。スミスの、この二つに対する考え方は次のようなものである。

スミスは、社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考える。もちろん、慈恵的な社会は、そうでない社会よりも快適な社会である。しかし、社会を維持し、存続させるために必要なのは、慈恵ではなく正義なのである。…(中略)…慈恵は望ましいものとして勧められれば十分であるが、正義は守るべきものとして強制されなければならない。(p64)

このあたりを読んで、「正義」だけではやはり、秩序を保つには不十分ではないか、と思わざるをえなかった。
周りを見渡してみても分かると思うが、世の中には、正義はある(人に危害は加えない)が慈恵は全くない(他人の利益は考えない)人がいる。たしかに、表面的に正義を保ち、礼儀正しくしていればその人が社会的に排除されることはない。
しかし、「他人を傷つけない、利益を損なわない」という「正義」という概念は実に曖昧に解釈できる。集団で何かをする場合、他人に協力しない行為は、まわりまわって他人の時間や体力を奪い、配慮を強いてその人のリソースを食いつぶすだろう。慈恵を考えないフリーライダーは、社会を砕けさせはしないが、確実に腐らせる。利己心や自愛心は制御されるべき(p59)とスミスは考えていたようだが、まわりまわって他人を蝕む無邪気な利己心は、目に見えないだけに責められることはない。
他人のことはともあれ、最低限の正義を守り(もしくは守ったふりをして)自分の繁栄を求め、競争に励むことが社会の繁栄の基礎だというのもわかる。しかし、曖昧な「正義」だけでは損なわれる社会のリソースと言うものがあるのだということは、やはり確かであるように思われる。「すべき」ではないがすると喜ばれる慈恵の精神があってこそ、持続的に社会は成長していける。

…とここまで書いてきて気づいたが、これは公共財とか、そういう概念につながってくるということだろうか。経済学というのは、ある意味ここにはじまり、これを修正したりしていく歴史なのだろう。もっと勉強して、頭の中に一筋のつながりを作りたい。この本は、良いきっかけになった。

国富論』の部分は、経済をそれなりに勉強した人にはあまり面白みはないのかもしれない。しかし個人的にはとても勉強になったし、さらなる読書欲をかき立てられた。折よく、今年のセンター試験の国語の第一問をちらっと見たところ、岩井克人さんの文章の一節が取り上げられており、この本を読んだ後で読むと非常に刺激が大きかった。アダム・スミスにはじまる労働の対価に関する経済学のその後の展開や、現代における労働の価値について考えさせられた。今度はぜひ、彼の本も読んでみようと思う。