生井久美子「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて」

目が見えず、耳も聞こえない「盲ろう」を生きながら、障害について、バリアフリーについて考えている東大教授、福島智さんについて書かれたこの本。
彼がどのような人かは、テレビを見たり話にきいてある程度知っていた。感動を求めて読んだわけではない。ゆびさきの動きだけで人の話を理解し、早口でばーっとユーモラスに語る彼の姿を見て、ここまでできる人間というものの力の源泉を見たかったのだ。

福島さんがここまできた力の源は、ユーモアであると何度か述べられている。彼は、本で読む限り、精神的にタフで、他の人は感じないストレスの中で動き続けてきたすごい人でありながら、人間関係に悩み、大学の仕事のハードさに適応障害を抱えたりする「普通の人間」でもある。ベースにユーモアのセンスがあるからこそ乗り切れた瞬間もある、という事実に、悲観すら突き抜けるユーモアの力のすごさをみた。
しかし、生まれてから少しずつ感覚を奪われていく日々のなかで、母が指点字を見出した瞬間や、父が点字で打った手紙にこめられた息子への思いには、ぐっと胸がつまるのを抑えることができなかった。
一方でこの本は、指点字通訳をはじめてくれた仲間との軋轢や、障害を持った夫を持つ妻が自分のありかたについて悩み苦しむ様子についても詳しく語ってくれる。指点字通訳という、肌が触れるコミュニケーションによって人間関係を作っていく難しさが浮き彫りになっているあたり、とことん簡単ではないな、と感じた。

人から黙殺されること、でもどうすることもできないことへの悲しみや怒り、周囲の人間が協力してくれてこそ存在しうる自分の生活という難しさ、自分がこれからどうなってしまうのか、についての葛藤…福島さんのこれまでについて書かれたこの本を読むと、普段想像しないようなことに思いを馳せさせられる。人の痛みをぼくらはふだんどのくらい想像できているだろうか。自分の悩みをどれくらい客観視できているだろうか。

さまざまな経験を経て、「障害者がなすべき仕事は生きること、支え合うことだ」と述べつつ、ヘレン・ケラーのようなアイコンとして、障害についてや能力と差別について考えたことを世の中に発信し続けようとする姿は、強烈だ。次のような発言には、能力とか労働生産性とかに関して、福島さんにしかできないような発想があって、はっとさせられる。

盲ろう者は、コミュニケーションが遅いし、ゆっくりしている。労働生産性は低い。でも生きていることは事実で、コミュニケーションや労働生産性で説明できない何かが生まれている。
頑張れば普通のようにできるという幻想を描けない人が生きていることが、理論と現実をつなぐ上での「橋渡し」の役割を担うのではないか(p173)

他人に助けられて生きているのは、障害を持った人だけではない。自分の周囲を見渡してみれば、自分に引け目を感じずに他人に頼ることができ、逆に頼られても重く感じずに「お互いさま」の精神であたってくれる人が、みんなに一番愛されている。彼の、『他者とのかかわりがなければ、自立はありえない(p205)』という言葉には、障害や苦手なことがあろうとも、引け目に感じずに他者と関わっていこうとすることが大事だという気持ちと、一方で、一人で悩み無理することはない、支え合うしかないのだから、という気持ちの両方が含まれているように感じられる。

他人に頼ったり、他人のことを考えなくても生きていけるのが自立ではない。互いに心の重荷を感じずに、よっかかりよっかかられること。ユーモアと合わせて、そういうスタンスこそ、これからもっと大事になっていくのかもしれない。生き方について、他人との関わり方について、自分の悩んでいることについて、などに関していろいろな気づきを与えてくれる一冊。ぜひ一度読んでみていただきたい。