瀬名秀明「インフルエンザ21世紀 (文春新書)」

新書なのだが、とっても、ぶあつい。ページ数だけで、著者の力の入り方がわかる。書きたいこと、読んでほしいことはたくさんある。さらに言えば、一人でも多くの人に手に取ってほしいから、なんとか新書にしたい。そういう気持ちがパッケージだけでよくわかる。しかも、印税は慈善事業に寄付されるそうで、徹底していることこのうえない。
さて、内容についてだが、さすがに博士号持ちの作家。その強みを生かして、専門性は落とさず、浅いレビューには留まらず、かつ読みやすくおもしろいものに仕上げている。しかも、監修には現役の研究者である著者の父親がついており、その関係で現役のインフルエンザ研究者や、インフルエンザ対策に関わっている役人へ徹底したインタビューを行い、それをまとめている。
何がおもしろいかといえば、インフルエンザというそれだけなら実に小さなウイルスに関連して研究や仕事をしている人、関わっている人の実に多いことと多様なことをこれでもかと見せてくれることだ。
今年のインフルエンザの大騒動のルポからはじまるのだが、この時点で登場する人物が実に幅広く、今年の騒動の裏にどのような個々の思いがあったのかが明らかにされていく。個人的には、防疫に関わる人やお医者さん、厚生省の人などへの徹底したインタビューから導きだされた「現場」と「専門家」についての考察は、今年の出来事を振り返る上で決定版と言えると思った。ある立場から調べて、わかりやすくまとめるのは簡単だし、分かった気にもなれるが、そこから学べるものは多くない。地下鉄サリン事件を扱った村上春樹の「アフターダーク」もそうだが、多くの立場の人の意見をまとめてみてはじめて浮かび上がってくる問題とか全体像がある気がする。
河岡先生らが登場しインフルエンザの感染機構と糖鎖に関する最新の研究を紹介する2章、渡り鳥などに高病原性インフルエンザのH5N1を追う疫学調査に迫る3章はとてもスリリングでおもしろかった。これだけ人々を騒がせるインフルエンザについてどのようなことがわかっているかがたくさんの研究者から語られるインタビューは、現場感に溢れていて、同じ研究者として読んでいてとてもどきどきした。
しかも、分かりやすく書かれている一方で、AだからBで、BだからCで…というような分かりやすい図式を読者に見せるだけではないところがとてもいいと思った。例えば、鳥類とヒトで、インフルエンザの取りつける糖鎖の形が違うということを述べているところでは、それを受けてこう述べる。

…その構図は決していついかなるときでも当てはまるわけではない。二十一世紀のいま、研究者たちが日々取り組んでいるのは、いわばそういったわかりやすい構図からさらに踏み出して、小さな例外にも注意を払いつつ、複雑に入り組んだ生命現象の総体を理解しようとする不断の科学の営みなのである。(p186)

なんと真摯な言葉だろうか。科学について書く際に受けがいいのは、分かりやすい構図だけを示すことに決まっている。テレビの科学番組はだいたいそうなっている。実際に、ある生命のメカニズムをきれいに説明できる場合だって確かにある。しかし著者は、そういう分かりやすく説明できる場合ですら、そんなに簡単じゃないとあえて書く。
面倒かもしれないが、ほんとうの意味で科学をわかってもらうには、そういう泥臭いところ、分かりにくいところ、複雑で例外だらけのところについても、理解してもらう必要がある。分かりやすさを超えて、複雑さに思いをいたしてくれるときにこそ、はじめて専門家以外の人が科学を応援してくれるようになるのではないかと思う。研究にしっかり一度どっぷり浸かっただろう著者は、そのあたりを意識して書いている。そういう方がいることに、勇気づけられる思いだ。

たしかに、この本の主役であるインフルエンザウイルスについても、実際のところ複雑で難しいことが多いのだと思う。例えばどのように人から人に移っていくのか、その広がり方についても、わかっていないことが多いという。この本のインタビューで、分子生物学だけでなく、数理統計学社会学の知見まで平等にページを割いて紹介されているのは、それだけウイルスの広がり方、社会へのインパクトを見積もっていくのが難しいことを示している。
そうした、インフルエンザウイルスに関する研究分野の広がりは、読んだ自分にとっても刺激的だった。研究をどう展開していくべきか、社会とリンクさせていくかについて、いやでも考えさせられる。

もう一つこの本で考えさせられるのは、科学コミュニケーションに関する議論のところである。パンデミック時に、専門家と現場の人の意見が違ってしまったり、一般の人に説明を求められる場合に、どうやって意見の一致を見ていくのか、どういうことばで科学について話し合っていけば良いのか。難しい問題ながらも、そういう場合の対話が三つのフェーズに分けられ(対話の基礎となる科学的真理を語る「真理へと至る対話」、専門家だけでは決着のつかない問題について語る「合意へと至る対話」、さらに「終わらない対話」)、そのフェーズを意識して対話していかねばならない、という著者の考えは、とても示唆的で考えさせられるものだった。互いに顔を見て、お互いがどれだけのことを知っているのかについて考慮に入れながら語ること。心がけていきたいし、ずっと考えていかねばならないテーマだと思った。

他にも、看護士や技師の話から考えさせられる医療と科学の問題や、今年のパンデミックでも見られた差別の問題など、じっくり考えていきたい問題がぎっしりと詰め込まれていて、値段分以上の価値があると感じた。
科学にたずさわるものでなくても、インフルエンザについて知りたい人にはもちろん、専門家とは、現場とは、について少しでも考えたことのある人、ひっかかる人にとっても、仕事のありかたについて考えさせられることの多い本であると思う。