森博嗣「自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)」

「自由」を、当たり前に手に入るもの・当然そうであるべき状態と思うか、そうでないかは人によってかなり違うだろう。
この本で著者は、自由を「支配からの解放」を超えた価値として考えている。自分の思い通りにことを運べること、としての「自由」の価値。少し前に読んだ本忌野清志郎が語っていたことと通じることが語られている、と感じた。この本を読めば自由をすぐに手に入れられるわけではない。自由に生きるとは、誰が語っても、一見面倒くさいことのようだ。
だからこそ、書かれているように、「支配されていることの安心(p42)」も生まれる。自由に生きていくのが面倒くさいから、支配に身を委ねてしまう。動物的な本能のようなもの、とすら言われる。それが悪いとは書かれていないものの、自由の価値がわからないのはもったいない、と著者は感じているようだ。
自由は人間の知性がつくった人工的なもので、科学的な思考はまさにその代表だ、という考え方は実に、大学で教えていた理系の著者らしい考え方で真新しい。他人の目だったり、マスコミだったり、自分で自分を規制してしまうことだったり…しっかり理詰めで考えていくと不自然だったり、搾取としか言えないようなことだったりすることが現在の世の中ですらたくさんある。そうした身近に潜む、見えにくい「支配」が、著者と一緒に考えていくことであぶり出されていく。それをどう打破するか、についても語られる。

しかしここでも逆にぼくが感じたのは、そこまで「自分で」考えて動かねば自由は得られないのだな、それを面倒だと感じる人間も少なくないだろうな、ということだ。金銭的なことであったり、時間的なことであったり、自分の状況を認識して、分析して、解決策を練る。その際には、周囲の人との協調・根回しも必要だし、人が行かない道を選んで進んだほうがいいことが多い…。『このように、根気良く、少しずつ築かれるのが自由である。(p102)』
どれもこれも、「これで安心」という道筋とはほど遠い。即効性のあるものでもない。視線が遠くを見ている。これが、なかなかできない。
こういう仕事につけば、この人のツテをたどれば、こういうスキルや資格を身につければ、これだけお金が貯まれば…そういうものを求める人が多いことはよく感じる。自分もそうだったからである。自由に生きているような、余裕のある人を見て、その位置までいけば余裕もあるし自由や社会のなんたるかがわかるだろうけど、自分にはまだ何もない、その感覚はわからない、と言うような人だ。
しかし、この本が語りかけているのは、「自分にはまだ何もないから」と言っていては、結局いつまでも自由は手に入らないということだ。一つでも安心を得て先に進みたい気持ちはわからないでもないが、それよりも先に、苦しくても考えて自分で道を切り開こうとする行動こそが自由へつながっている。

著者は「大した苦労ではない(p113)」と言う。しかし、これができない人の方が多いところに、社会全般としての科学的な考えの欠如があるように思った。
この本に書かれていることがすんなり納得できるようならこの本は必要ないだろうが、きっとそこまで徹底して自由について考えている人は多くないだろう。自分がどう生きていきたいか。そういうことについて、何かしらの新しい気づき、新しい発想が浮かんでくる本だと思う。