橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)」

正直なところ、こういう本を読んだ感想を書くのは少々気が重い。楽に書けばいいじゃないかとわかっていても、ビジネス書とか小説、評伝を読んだ時のようにはさらさらと書けないのが、こういう哲学などを扱う本についてだ。

ヴィトゲンシュタインに興味を持ったのは、ちょうど大学に入る前のことだった。たまたま、立花隆が彼の哲学について紹介しているのを見て、細かいことはわからないが面白いことを考える人がいるものだ、と感じたのを覚えている。

それからというもの、ヴィトゲンシュタインについてやさしく書いた本をときどき目については読んでいった。もちろん全てが分かるわけではないけれども、『語りえぬことについては沈黙しなければならない』という有名な言葉で閉じられる刺激的な本、「論理哲学論考」についても、「ウィトゲンシュタイン入門」や「『論理哲学論考』を読む」などで自分なりに考えてみた。

この哲学者が、生涯で全く異なる二つの哲学を打ち出したことは知っていた。前期の「論理哲学論考」を否定して出したのが、タイトルにもある「言語ゲーム」という考え方だ。ただ、こちらに関して特に焦点を当てて、なぜそれが生まれたのか、どういうものなのかを書いた入門書はあまりなかった。
それを、「はじめての構造主義」がとてもわかりやすくて面白かった著者が書く。これは、読まないわけにはいかない。

この本では、孤独に哲学に取り組み続けたヴィトゲンシュタインの生涯を、彼の生きた、二度の世界大戦により大きく揺らぎ続けたヨーロッパを背景にして描く。
前半では、ユダヤ人であり、キリスト教を信じ、戦争に参加し世界の意味と神について考えた末に生まれた「論理哲学論考」について。その主張を実にざっくりと、しかしわかりやすくまとめ、自らを神の立場におくような特異なその哲学を明らかにする。
後半では、その過ちを見出して打ち立てた言語ゲームというアイディアについて、そしてそれがさまざまな分野に与えている影響について語られる。この哲学が、「自然発生的な、人びとのふるまいの一致」と「一致したふるまいの背後にある規則」について語るものだ、という説明はじつにわかりやすい。さらに、そのアイディアが民主主義的な法のありかたなどの裏付けになりうることを明らかにしていく流れは、言語ゲームの与える影響と普遍性をつぶさに感じさせてくれる。
言語ゲームは、「あれもだめならこれもだめ(p250)」という価値相対主義を超えて、実際に現代の課題を考えるのに役立つのだと書く最終章。ちょっと、引用する。

どんな価値も、また意味も、永遠、普遍のものでない。それは、人びとの「ふるまいの一致」によって、支えられているだけである。そして、「ふるまいの一致」は、なにものによっても支えられていない、からだ。
ふるまいが一致するのは、ルール(規則)による。
でも、ふるまいが一致するかどうかは、事実の問題である。(人びとがサッカーをやるのは、そのルールに従うから。でも、人びとがサッカーをいつまでも続けるとは限らない。)
ゆえに、どんな言語ゲームからも、いつかは抜け出すことができる。どんな言語ゲームも、だんだん別の言語ゲームに変えていくことができる。(p257)

ここだけで分かると思うが、こういう哲学系の本は結局何も変えられない、というもやもや感がつきものだが、この本は違った。引用部でもわかるように、世界は少しずつ良くしうる、そのために哲学はあるのだ、というポジティブな見通しにこの本は貫かれていて、ヴィトゲンシュタインとその思想の魅力があらためて感じられる一冊になっている。
ほんとうに、簡単な言葉だけで書かれている。また、ユダヤ・キリスト・イスラムのそれぞれの宗教における法律のとらえ方に関する考察など、はっと思わされる部分が多く、とても楽しめた。