塩野七生「マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)」

マキアヴェッリというと、「君主たるもの目的を達するためには非情さも厭わないことが重要だ」というようなことを言った人、というイメージがあった。「自省録」でマルクスが語るような、人格者としての君主・指導者と全く正反対なことを述べているのだ、と思っていた。
彼の思想に関してさまざまな本が出ているなか、塩野七生がまとめたこの一冊を読んで、少しマキアヴェッリに対するイメージが変わった。
『愛されるよりも怖れられるほうが、君主にとって安全な選択であると言いたい。(p92)』『…君主(指導者)は、それをしなければ国家の存亡に関わるような場合は、…悪評や汚名など、いっさい気にする必要はない。(p69)』などといったアドバイスには、非情を勧めているというニュアンスはない。むしろ、限られた才能と時間で人の上に立つには、人格者になることを考えない方が効率的なのだ、と言っているように読める。
実際、人格者であるに越したことはない、ということはあちらこちらで述べられており、マキアヴェッリがそういうことを軽視していたわけではないこともわかる。
変な言い方だが、誰もが人間的に優れている余裕はない。一定の数の指導者層が社会を支えるのだとすれば、人格はひとまず考えずにおいておけ、という彼のアドバイスは実に現実的だ。人の上に立つ人が自分の支えになるような本を読むとして、「まだまだ自分は至らない」と感じてしまう「自省録」を読むより、「人格者にならなくていいのだ」と思える「君主論」を読んだ方が安心できるのはもっともなことだ。
とはいえ、非情でも目的を達する、というマキアヴェッリの説くような指導者の水準に達するのも生半可な覚悟ではままならない。部下・自分が指導するものたちがどういう心持ちで動くか、どういう性質を持っているか、について深く考え知ることも必要となる。この本では、そうした「民衆」と彼が呼ぶところの人びととどう相対するかについての考察もまたためになる。
のみならず、運命にどう向かっていくか、時代の流れにどう乗っていくのか、など、一個人がどう生きるべきかについても深く考えさせられる。こうした個人に対する言葉と、国家をどう作っていくべきかを考える言葉が自然に並んでいるところにマキアヴェッリの視野の広さと洞察力の深さがある。塩野七生のまとめかた、並べ方のうまさもあるのだろうと思う。

こうした君主のあり方、国家のあり方を語る言葉だけでなく、「自省録」と同様、細かく読んでいくと色々面白いところがあっておもしろい。個人的には、

忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと、思ってはならない。(p229)

なとという、いかんともしがたくドロドロとしている人間の敵意や怨念の深さに注意を促しているところに興味があった。楽観的にでなく、人間のネガティブなもののどうしようもなさを受け止めること。人のことを気にせずいかなる手段を用いてでも目的を達すればいい、という単純な図式では解決できない複雑さがたくさんあること。そうしたところにまで考えが及んでいるマキアヴェッリの深さをたっぷりと味わうことができた。