野家啓一「パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)」

「ものの見方」「考え方の枠組み」という意味で一般的にもよく使われる「パラダイム」。この言葉はもともと、科学哲学・科学史において、『研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を提供する一般的に認められた科学的業績(p15)』という限定した意味で用いられるものであった。
本書は、『科学革命の構造』という著書でこの言葉を用いたトーマス・クーンが、「科学は合理的・連続的に前進していくのではなく、断続的に転換する時がある」ということを提唱し、科学哲学・科学史の分野を超えた論争を巻き起こした過程を見ていこうとするものである。
自然現象の真の原因は自然のなかに実在するという「科学的実在論」、観察された事象から現象を説明する仮説を立ててそれを実験により検証する「仮説演繹法」、そしてこれによって合理的に進歩していく科学の法則が未来を決定できる、予測できるとする考え。こうした科学観は、現在でも自然に前提としてしまうような説得力を持っている。
これらの考えに反するような説を提唱したクーンは、物理学を専攻する実験科学者として出発している。自身もまた普通に受け取っていたと考えられるこうした考えに、クーンがどのように疑問を抱き、科学の歴史を学ぶようになり、「合理的な進歩」という科学観を変革するような本を書いたか。この本では、クーンが社会科学者との仕事をするなかでカルチャーショックを受けたことなど、その誕生までの過程が書かれておりここの部分も興味深い。実験科学を本業とするものは、自分のやっていることの成り立ちや哲学について考えることを怠りがちだが、自分の分野から少し距離を置いたからこそ見えるものがあるのだ。

僕も含めてそうした読者にとって、本書におけるクーンの主著『科学革命の構造』の解説は、重要な箇所を中心に、ではあろうが、その言葉の使い方や歴史的な意味も含めてわかりやすく説明してくれており、読んだことがない身にはとてもわかりやすいものだと思った。特に、クーンが描いた科学像が、目的に向かって前進するという意味合いを含んだ「進歩」ではなく、無目的な、ダーウィンが進化論で論じているような「進化」であるという例えはとてもわかりやすい。進化論にしても、少し聞いただけの人にとっては、ダーウィンの考えたような無目的な変化の重要性は理解しづらいことを考えれば、クーンの考えが受け入れづらいのもよくわかる。

かといってこの本は、クーンの考えに全面的に沿い、その主張にただ賛同しているわけではない。著者は、クーンのどのような論じ方、どのような言葉の使い方が彼の主張に対する誤解や反論を招き、「パラダイム」という言葉に対する拡大解釈を生んだかについても客観的に触れていく。この辺りを読むと、今までと違うことを主張するためには、若干センセーショナルにならざるを得ないし、それが多くの反論を招くことも確かだなと感じる。実際、クーンも望まぬ議論に巻き込まれて批判の集中砲火を浴びることがあったようだ。しかし、大事なのはそうした反論から学ぶこと、それらを取り入れてより自分の考えを洗練させていくことだろうということもまた感じることができた。


ここからはごく個人的な感想になる。
実験科学にたずさわるものとして、この本を読んで特に興味深かったのは、クーンが科学史における目的論を退けようとしたとともに、『通常研究』という概念を大切にしていたことだ。
すなわち、コペルニクスダーウィンアインシュタインのような、革命と呼ばれるような業績をあげることは、科学の一側面に過ぎない。『通常研究』と呼ばれる『伝統に束縛された(p134)』研究の長い期間が、革命的な転換への前提となる。このことは、例えばサイモン・シンの本などを読むにつれても確かに根底に流れている考え方でありながら、強調してまでは述べられない考え方のように思う。
『通常研究』とされるものこそが革命の前提だという考え方は、個人的には非常にしっくりくるのだが、『研究者』に憧れる人間には理解し難いものかもしれない。例えば、周囲の研究者を見ていてもわかるのだが、個人の才能と発見発明を重視し、「銅鉄研究」と言われるような追試実験のようなものをつまらないと考え嫌悪する傾向は、日本でもいまだに科学者のイメージとして根強くあると思う。
しかし、こうした、ある意味かっこいいところばかりを見ようとする傾向からは、集団とプロジェクトで動いている現在の科学の姿を見間違えてしまうように思える。個人の力などたかがしれている。かといって歯車になれというのではないが、『通常研究』とされるような目立たず泥臭い研究でも、それを継続していくなかで、革命につながる違和感を常にキャッチし続けること。いつでも自分がその革命のなかに放り込まれることを見据えながら、『通常研究』の日々にいそしむことこそが、研究者に今できることではないかと思う。