岡田暁生「西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)」

ぼくのクラシックの知識は、中学校の音楽の時間で習うレベルの有名な作曲家と有名な曲、および映画『アマデウス』を見て聴いてみたくなり、かじったモーツァルトくらいに留まっている。そんな自分にとって、とても面白く、ためになって、いろいろとクラシックを聴いてみたくなった格好の入門書。
こういう入門書のたぐいはいろいろあるのだろうが、著者は実に戦略的にこの本を書いている。まず、いきなりこう述べてしまうのである。

私自身、十八世紀から二十世紀初頭に至る「クラシックの時代」こそ、西洋音楽が最も輝かしかったエポックであったと確信しているし、こうした自分の音楽史観のバイアスをあえて隠すつもりもない。(まえがき)

この宣言が、この本を中途半端な解説書ではなく、実に面白い読み物としていることは疑いがない。こうしてクラシックの時代を中心に据えたうえで、それ以前の古楽や、それ以降のポピュラー音楽などを位置づけようとする。
だから、必ずしもバッハが出てきて、次にハイドンモーツァルトのことを書いた節があって…と順序よく並んでいるわけではない。著者は、音楽史の大きな流れを概観しようとする。

音楽史を語る」とは、単に大作曲家と名曲の名前を列挙していくことではない。音楽史は名曲案内とは違う。歴史を語るとは、多様さがそこへ収斂していくような「軌跡」を見出すことに他ならない。(p131)

このスタンスのために、ブラームスってどのあたりだっけ、などと探したいときには必ずしも親切な本ではない。でも、それでいいのだ。この本を読むことで、間違いなくぼくの中に、多種多様なクラシック音楽の作曲家や名曲が生まれてきた流れ、それが今につながっている歴史の流れが刻まれた。
具体的には、いろいろな側面からそれぞれの時代の音楽の歴史について語ることで、流れはいっそう見えやすくなる。世界史などを少しでも好きな人はよりこの本を面白く感じるだろう。著者は、どんな人がどんな場所で音楽を聴いていたのか(宗教の場→王様・貴族のため→たくさんの人の楽しみ)、作曲家がどのような社会的立場にあってどのように生計を立てていたのか(パトロン→楽譜を売り演奏会を開く→…)、などについて漏らさず書いて、歴史と重ね合わせて音楽が生まれた背景を描いていく。
こうした背景があるだけで、『クラシック』が多様性に満ちた、歴史的に変遷してきたものとして、わかりやすく見えてくるから不思議だ。一人一人の作曲家について詳しく知るのはそのあとでいい。実際、この本を読んでいると、それほど細かく一人ずつについて解説されているわけではないが、著者はそれぞれの時代の音楽の良さや魅力についても書いていて、いろいろ聴いてみたくなることも間違いない。


そう、単に歴史を淡々と語るというスタンスでないことがこの本のもう一つの面白さである。モーツァルトのオペラの流麗さについて、ワーグナーの昂揚感について語る著者の口調には、「西洋音楽史」という固いタイトルの本のものとは思えない艶がある。
クールな語り部としての文章、また熱く語る音楽ファンとしての文章、両方が程よく混じり合った傑作音楽史


…蛇足を覚悟でもう少し。
ストラビンスキーとシェーンベルクを紹介し、おおむね第二次世界大戦でこの本の歴史としての記述は終わる。しかしその後が面白い。
現在の音楽は、昔のレパートリーの演奏、前衛的な作曲、ポピュラー音楽、と三つの流れに分かれてしまったと述べた後である。公衆に受け入れられ、過去の伝統を継承しかつ実験的な音楽を生んできた「クラシック音楽」の系譜をモダンジャズに求めたり、ポピュラー音楽こそ「感動させる音楽」というロマン派の継承者であると述べたり、現在の状況をこれまでの文脈からずばっと説明していて、ここが実に興味深い。
モダンジャズについて語る書きっぷりなどは、このまま思うままに書いてくれればまだまだ夢中に読むのに、という熱さがある。続編があってもいいなぁ。