堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)」

落語のことを書いていて、自分でおもしろいなとおもったのは、おれは「上方落語」と「江戸落語」のバイリンガルなんだなってことですね。(p213)

たしかに、おもしろい。巻末に落語CDの紹介などがあるが、桂米朝・枝雀と志ん朝・談志がごっちゃに紹介される様子はなかなかすごい。「ちりとてちん」を見てもよくわからなかった上方と江戸落語の違いについてなどもとても詳しくて、勉強になった。
この本は、上方落語を聞いて育ち、長じて江戸の落語に触れた著者が、江戸時代と現代の人間の暮らしの違いや人生の捉え方の違いについて語るもの。時間や距離の感覚、人間関係や恋愛と結婚についてなど、「落語の国」(江戸時代といってもよいか)から見ると今当たり前に思えているさまざまなことが、違って見えてくる。いろいろ面白い話題はあって、みんながおせっかいに結婚させようとしてきて、お見合いが当たり前だった江戸時代と今との比較などはうならされた。例えば次のところ。

ということは、恋愛結婚というのは、恋愛というロマンが大事なのではなく、本人が納得する、というところにポイントがあるのだ。その点では、見合い結婚だって同じである。(p157)

もっともなのだが、そう考えたことはなかった。こう考えてみると、「見合いは当たり前ではない、見合い結婚だと言うには周囲の目や評価が気になる」と思わせてしまうような今の結婚観は、すこし行き過ぎているのかな、と思えてならない。見合い結婚だって納得すればいいのに、納得できないような、居心地の悪い雰囲気。こう説明されるとすごくよくわかる。
この本で一番、うーんそうか、と思ったのは、死生観について。『死んじゃった人のことをいつまでもおもっててもしかたない。残ってる者が生きていかなきゃいけないんだ(p52)』という『死ぬ者貧乏(p48)』の思想。どこかでこれまで、死んだ人のことをなるべく忘れずにいたい、と思っていた。それが死んだ人を思っていることだ、と感じていた。でも、「しかたない」でいいじゃないか、というのはとてもよく腑に落ちた。死者も、ずーっと忘れずにいてくれ、ずーっと見ているから、なんて思っているはずがない。死が当たり前でなくなったからこそ、死を重く受け止めすぎなところはあるのだよな。ここのところを読んで、少し考えて、心が軽くなるというか、ぱっと前を向ける感じがした。それだけでも、いい本だった。

数多くの落語を見て聞いている著者ならではの、落語家評も面白い一冊。出てくる名前的にも、語る内容からも、このセンスは間違いがなさそうだな、と思わされる。もっと、ライブを見ないと。