池谷裕二・木村俊介「ゆらぐ脳」

若くて将来を嘱望されている脳科学者である池谷裕二先生の話を、「東京大学立花ゼミ」「ほぼ日刊イトイ新聞」で活躍してきた木村俊介さんが聞く。これまでの二人の著作からしても面白くならないはずがないのだが、確かにそのとおりの一冊だった。
ただし、これまで「ほぼ日」から出ていた本とは少々趣が違っている。どう表現するのが適切なのか迷うのだが、池谷先生が非常にぶっちゃけておられて、広く科学について面白く伝える本というよりは、科学者という仕事に相反して含まれる奥深さと面白さ、さらには泥臭さといったことまで濃い言葉で語ってしまう本となっている。
脳の研究を含む生物の研究には、「分子生物学的手法」というものがある。生物の設計図である遺伝子を操作できるようになったここ50年ちょっとの間に発展し、現在でも生命科学の研究のほとんどがそのように行われている手法である。不正確を承知で簡単に言うと、遺伝子を破壊・改変したときにその生物がどのような動きを示すのかを観察することで、一つ一つの遺伝子の働きを知ろうとするのが「分子生物学」である。分解して、壊してみて、元に戻してみるとどうなるか、という方法だと思っておけばおおむね合っている。
他の研究者と同様、分子生物学全盛の時代に脳の研究に足を踏み入れた池谷先生は、学生時代、ボスに与えられた課題にひたすら打ち込んだ。修士課程だけで13本の論文を発表するという驚異的なペースで研究を進めるうち、次第に彼の頭に芽生えていったのは、「一つ一つの部分を壊していってもわからないことがあるのではないか」という、分子生物学的手法に対する疑念だった…。
一つだけを見ていては、脳という全体の複雑な本質には迫れない。だれもが考えそうでいて、ではどのようにするのがよいのか、というもっと難しい疑問に答えることはなかなかできないでいるのが現状だろうと思う。コロンビア大学に留学し、脳全体をリアルタイムで捉えようという試みを通して、その難しいところに真正面から踏み込んだ池谷先生。従来の手法をとことんやってみた彼だから踏み込めた境地について、その難しさと理解されなさが木村さんを通して語られる。
ということで、この本は、いきなり最先端の、現在池谷先生がやっている手法とその解析方法という話題からはじまるのである。インタビューではさまざまな話を聞いているわけで、読者にはやさしいところからはじめてもいいだろうに、ここから始めるところがまた心憎い。もちろん、ちんぷんかんぷんになることは決してなく、現在一番科学者が興味を持っているところから話をはじめ、次第にそこに至る思考の過程を読者に示していく流れは、ひきこまれずにはいられない。編集のうまさと、質問の練られ方がよほどでないとこうはならない。
繰り出される質問は、科学を専門としているものが読んでも、「こんなこと聞いてしまっていいのか」「一般の人に向けてどう答えるのか興味がある」というツボをついたものばかり。

サイエンティストに「政治力」は必要なのでしょうか?(p111)
なぜ、個人の研究は成果があがりにくいのですか?(p125)
今の生命科学の主流の分子生物学も、信念からできていますよね?(p134)

…どれも、今でも現場に立っている研究者が本という形でも自分の考えをはっきり示してしまうには若干勇気がいる質問ばかりだ。あとがきで『愚痴や軽々しい信念のオンパレードになってしまった(p237)』と後悔している池谷先生だが、本を出すというだけで妬んだりする人のいる日本の科学界にあって、自分の信念をしっかりもって、現在のところの考えとして明確にする池谷先生は堂々としたものであり、すごいと思う。だいたい上のような質問を考えたこともない人も決して少なくないだろうし。
特にそのすごさが際立って感じられたのが、分子生物学的手法を離れて、複雑系ともいえるような脳の全体的理解に進もうとしたものの、『…で、何が分かったの?』(p50)と言われてしまうような現状について考えた彼の次のコメントである。

人の「分かる」の水準を上げる、あるいは尺度や定義を変えることで、脳を「分かる」ようになろうと。そんなことを、毎日、研究をしていて痛感しているのです。(p51)

分子生物学は生命の原理について大変な理解をもたらしたけれど、サイエンスの『分かる』をステレオタイプにしてしまった弊害もあるのではないか(p226)

壊して元に戻すとどうなるか、という現在のステレオタイプな理解を越えたところに、もっと総合的で深い理解があるのではないか、みんながそうした理解をできるような水準に上がっていけば、自分のやっている脳のリアルタイムイメージングという手法で脳をそのまま分かることができるのではないか、という提言である。悪い言い方をすれば、「わからないのは君たちが愚鈍だからである」とも言えてしまう怖さを秘めているが、これは本当に先を見ている人しか発することができない発言だ。
本を読む人は、その本が難しいからといって本のせいにはしないだろう。それは、自分の理解が高まっていけば、人類史において先人たちが残したより深い理解に自分も近づくことができることを知っているからである。実は、脳の理解に関しても同じではないか、私たちは理解のレベルが浅いだけではないか。ひょっとしたら、茂木先生あたりはそういうことを既に言っているのかもしれない。しかし、少なくともこれほど明快に、誰にでもわかる言葉遣いで本心を語った現役ばりばりの科学者がいるということは驚いてもいいのだろうと思う。これを「軽々しい信念」と言ってしまったら、科学はなんと面白くないのだろう。
そもそも、こういった答えをひきだしてしまうことも驚いてもいいはずだ。科学を専門としていない人が、まるで若い科学者のようにずばずばと聞きたいことを聞いてくれることのすごさは、さらっと通り過ぎていいものではない。こういうものを見ると、サイエンスの素養というのは学べば身につくものではないなというのを感じてしまうのである。文系だろうが理系だろうが、人の話をとことん聞いて理解していく、そしてまたわからないことを突き詰めていく、というコミュニケーションだけが奥深い理解へと進ませてくれるものなのだ。三つ目の質問などは、哲学にも触れるようなものだけに、そこらの科学ライターが半端な理解で質問できるものではない。
話を聞く編集者の理解、そして話すサイエンティストの勇気と深い思索。これから科学の世界に進もうとしている高校、大学生あたりにとっても、これを読んでなお研究をしようと思えるか、魅力的に映るか、を考えてみるのにいい機会だと思う。また、科学にはあまり普段接する機会のない人に、現在の生命科学の手法と考え方、これからについて知ってもらうにもこれ以上ない本である。そこらの偉い科学者先生が科学について語る本を読むならば、まずこちらを読んで欲しい。自分で買ってでも勧めたい、実に面白いサイエンス本である。