小平邦彦「怠け数学者の記 (岩波現代文庫)」

戦後早い時期にアメリカに留学し、そのご現地で数学者として世界的に活躍した著者のエッセイ集。これを読むと、学者として世界的に成功するにはどういう心持ちであればいいのか、などということを考えてしまう。
あくまでイメージでしかないが、数学者は、頭の中で考えたことをただ論文にしていく、実験をしなくていい、という意味でタイトルのように「怠けている」ように見えてしまうのかもしれない。しかし、逆にだからこそ、何かをアウトプットしなければならないというプレッシャーは大きいはずだ。
この本に掲載された、プリンストンに留学しはじめた当時の著者の手紙からは、英語が話せずに悪戦苦闘し、朝永先生ら、同じく留学していた日本人の学者と議論し、とにかくよくセミナーをやり…という日常が見えてくる。家族にはさらっと日常生活について述べながらも、実際頭の中は常に数学でいっぱいで、英語は通じなくても自分の考えた研究内容で他の学者たちとコミュニケーションをとっていく、そんな毎日だったのだろう。まずは自分の仕事内容で勝負することに徹することの大切さを感じた。
もう一つ、下に引用するところからもわかるように、著者のマイペースぶりというか、落ち着いた心持ちには驚かされる。

こちらへ来てみて、こちらの大先生方は物凄く偉いけれども、「その他大勢」に比べると僕も決して負けないことを発見しました。(p255)

留学するとともかくも自信を失ってしまいそうだけれども、こういう気持ちをはっきりと持てればこそ、自分の信じるところをただ進んでいけたのだろう。研究内容では負けない、という日本人はたくさんいるはずで、まずはそういう落ち着きと自信をしっかり持っておくのは大事なことなのだろうなと思った。

さて、留学の話とは別に、著者はさかんに、のどかな時代に学者としての人生をはじめたこと、だんだん分野自体が難しくなっていることについても述べている。

しかし今と違って早く論文を書いて急いで発表しなければならないという圧力はあまり感じなかった。むしろ本や論文を読んで数学を勉強する方が主で、たまたま何か面白いことを思い付いたらそれを論文に書く、という風であった。(p168)

ここからも、どこかマイペースな著者の仕事っぷりを感じ取ることができる。もちろん、著者がすごい人であることは疑っていないが、マイペースにやってこそ力を発揮できる人というのはいるものだし、そういう才能がつぶされないような時代だったのだろうな、ということは感じた。数学ではないが、科学研究をしていると、現在はどちらかと言えば、他の人に先を越されないように早く自分の結果を発表して、実績を早く溜めていかねば、という雰囲気がある。競争が激しいですよ、博士をとっても大変ですよ、という報道もそれに拍車をかける。
でもだからこそ、仲間同士で相互扶助しあって、マイペースだがすごいことを考えているような人がつぶされずに能力を発揮できるような環境作りがあってもいい。他人のことを考えている余裕なんてないよ、というモードは決して将来同じ道を目指す人にとっていいことではない。
数学という分野の研究の様子から、学問の分野がより細かく難しくなること、競争がより激しく余裕がなくなることの罪について少し考えさせられてしまった。