植村鞆音「直木三十五伝 (文春文庫)」

芥川賞直木賞という賞の名前くらいは誰でも知っている。そのなかでも、芥川龍之介の名前と彼の書いた小説を知らない人はいないだろう。
しかし、直木さんって、どんな人?…というのが普通の人の反応だろうし、僕もこの本を読むまで「菊池寛と仲が良かった人」とか「年齢とともにペンネームを三十一、三十二…と変えた人」くらいのことしか知らなかった。もちろん、彼の書いたものなど読んだことはない。
そんな人に向けて書かれた、この直木賞にその名を残す直木三十五の評伝は、彼のことがよくわかるだけでなく、読み物として実に面白い。
実は、直木三十五が小説を発表していた期間は、43歳で死ぬ前のせいぜい10年間である。それまで、編集者をやり、関西で映画を作り…とさまざまなことをやっていた。その間、常に借金取りに追いかけられていた。東京に戻ってからが、彼が文筆業に集中した期間であるが、この間の書きっぷりを、著者はこのように表現する。

編集の仕事をやりながら、映画を製作しながら、妻と愛人との二重生活を維持しながら、芸者を追いかけながら、囲碁・将棋・競馬を楽しみながら、短期間によくここまで書いたものである。(p248)

このように表わされる彼の人生は、まさに「文士」というイメージを地で行くような豪快さで読んでいて飽きないが、しかしこれだけではなぜ菊池寛が彼の死を惜しんで現在まで残る文学賞に彼の名前を冠したのかは説明できない。
著者は、こうした豪快な私生活と書きっぷりを記すだけでなく、『稀代のプランナー』と直木を称し、その企画の現代にも通ずる斬新さや、文藝春秋の販売増に寄与した眼力にもスポットを当てていく。当時新しかった映画業界に首を突っ込みさまざまな新しい才能を俳優として発掘した行動力や、年齢とともに毎年自身のペンネームを変えるという誰も真似しないようなアイディアの他にも、彼の雑誌上での企画力はずばぬけていた。
自らの貧乏話を随筆に書くだけでなく、著名な小説家の家に押し掛けて将棋や囲碁の手合わせを頼みその様子をレポートしたり、小説家のランキングを勝手に作ったり、仲間のゴシップを次々と書いたり。もちろん、自分で構想した、思い切った解釈を施した大衆歴史小説も、読者のみならず当時の作家仲間から大きな支持を受けた。それらを彼は、知人に囲まれ時には話したり将棋をやったりしながら、死に至るまでの数年間、恐ろしいスピードでひたすら書いたのだ。

直木が、生まれたばかりの雑誌に集う作家たちの中心で、次々と面白いことを考え、ムードメーカーのような立場でひたすら書いていた様子を思い浮かべると、彼の名前を芥川龍之介と並べて賞に冠した菊池寛の思いもなんとなくわかってくる。
経営者である菊池寛は、芥川龍之介直木三十五という、図抜けた文才と企画力という自分の持っていない才能を持っていた二人を尊敬し、その早く亡くなってしまったことを心から惜しんでいたのだなとこの本を読んで改めて感じた。自分より才能のある人間を認め、その才能を愛することができるというのもまた偉大な才能であるだろう。
著者は、直木三十五の甥。若いときに叔父の評伝を書くことを志し、じっくりと自分の中で熟成させてこれを書いたとのこと。あくまで雑誌や本や手紙などの資料や聞いたことにのっとり、私情を大きくはさまずにかっちりと書きながらも、飽きさせない面白さに仕上げている。対象とする人物への想いの強さが、こんなにも面白い評伝を書かせるのだ。菊池寛を書いた下の評伝とともに、ぜひ、一読あれ。

口きかん―わが心の菊池寛

口きかん―わが心の菊池寛