柴田元幸「翻訳教室」

英文学を楽しく我々に紹介してくれる柴田先生の、翻訳の講義の様子を文字に起こした本。しばらく前に買ったものを、じっくりと楽しんだ。
表題では、「翻訳」は『Literary Translation』となっている。柴田先生だから当たり前だが、あくまで「英文学の」翻訳の講義なのである。しかし、一つ一つの英語になるべく寄り添おう、書いた人の意図をなるべくそのまま伝えよう、とするところは、もちろん、実用的な翻訳に通じるものがある。英文学に必ずしも興味がない人、純粋に実用的な翻訳に取り組む人にも得るところは多いはずだ。
翻訳に限らず、文章を書くときには、おかしな文章にどれだけ『違和感』を覚えられるか、その感じを自分で保ったまま、文章を自分で修正していけるか、が大事なのかなと最近思いつつある。この本を読んで、なおさらその感を強くした。抱いた違和感の数だけ文は良くなる。そしてそれは、数多く文をじっくり読んでいくことでしか得られないものかもしれない。
この本では、講義で学生の提出した「ここはこうではないですか?」という違和感、そして学生の訳に柴田先生が感じる違和感とコメントを通して、英語を翻訳する際の微妙な難しさを感じ取ることができた。さらには、「〜だと思って」「この英文から〜を想像した」「〜というニュアンスが訳にほしい」といった講義における会話は、一つの台本を読みながら細かい設定を詰めていく舞台俳優さんたちといったイメージで、とても楽しい。要は、台本と同じで、翻訳も、英語を見てイメージを持たねばならないのだ。柴田先生も、また、ゲストとして参加されていたルービン先生も、このことに関して、同じようなことを語っているのが印象的だった。

柴田:とにかく、何のイメージもまとまらないまま、言葉がずるずる続くのがまずいんだよね。(p58)

ルービン:個人の解釈が入らないことには、何も伝わってこないと思います。(p145)

文のイメージをしっかりもち、(なるべく原作者の意図に沿った)解釈をまとめること。これについては、文学のみならず、重要なポイントだと思うので、意識したい。
実用的な面では、大和言葉で訳すか漢語で訳すか、対象との距離感はどうすべきか、など、単に英語を日本語に直すのではなく、全体のイメージを整えるために考えなければならないことがたくさんあるのだな、というところが発見だった。
この本を全て読んでみて、とにかく学生の質問がハイレベルだ。そういうのを残したというのもあるのだろうが、それにしてもうまい。たとえば、「原文にある…というニュアンスを出したいのですが」「先生の訳だと…という感じになってしまうと思うのですが」といった質問だが、どれも柴田先生の意図をうまく聞き出していたり、ニュアンスをうまく捉えていたりして、それがこの本で見る限り講義にいいリズムを生んでいる。そして、それらの答えるのが難しい微妙な質問に、柴田先生は自分が訳した際の迷いや苦しい意図もすべてさらけ出して答える。なんという真摯なぶつかり合い。自分ならどうするか、どう学生の質問に答えるか、を考えながら読むのも楽しい。
一つ一つの講義の冒頭にはそれぞれの原作者のバックグラウンドや歴史が紹介されており、読書欲もほどよくそそられる。
勉強にもなり、文学としても楽しめる作品がずらりと並ぶ。柴田先生のサービス精神が嬉しい。

最後に、翻訳について示された一つの考え方をメモっておきたい。英語の論文を書いたり、日本人が英語と付き合う際には、ここでいう「なんでもないこと」として接してもいいような気がしてきたのである。言葉に繊細になる必要はあるけれども、使えればいいのだ。重大でも、芸術でもないのだ。そう開き直ってしまっていいように最近は思えてきた。

柴田:小津安二郎がこんなことを言っています。「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」。翻訳という作業は、その意味では「芸術のこと」にはほとんど関係ない。まったく関係ないっていうと語弊がありますが、ほとんどのことは「流行に従う」でいい。長いものに巻かれるのが正しいという場合がすごく多いですね。(p321)