横尾忠則「隠居宣言 (平凡社新書)」

著者の名前は良く知っている。でありながら、自分の年齢からくるものかもしれないが、なかなかこれまでの、そして現在の活躍をあまり存じ上げないのである。
それでも、この本は面白い。70歳になって、タイトル通りの「隠居宣言」をした著者の思うところ、これまで、そしてこれからの生き方などについて、質問に答え、また好きなことを書くというスタンスでまとめてある。この本のスタイル、そして著者が質問に気持ちのいいリズムで受け答えする感じが、はからずも「隠居」という雰囲気で、好きだ。
著者が目指すのは、単にだらだらと余生を過ごす隠居ではなく、好きなことだけ創造的にやりたいです、という隠居であるらしい。これはずいぶんぜいたくだ。なにせ、現在若い世代に属する人間のなかで、好きなことだけして生きても心配のないお金を70歳の時点で持てる人は限られてくるだろうからだ。
もちろん、お金があれば誰でも魅力的な隠居生活ができるわけでもなさそうだ。つまり、この本を読んで心に残ったのは、隠居には若いときからの練習がとても大事だということだ。…そういうふうにはっきり書いてある場所があったかは忘れてしまって見つけられないが、これは確かにそうだと思う。
好きなことだけやる、余計な付き合いや仕事をしない、というのは、仕事をすることが癖になってしまっている人間には難しいことだろう。孤独になれないと創造的には生きられないが、そういった生き方は社会生活に必要でもないしむしろ邪魔なものでもあるだろう。真面目に、しっかりと社会に地位を築いてきた人間には、急に著者の言うような創造的な隠居はできないのである。
さらに、いい隠居になるには、その人の性格も影響するかもしれない。横尾さんが成人してからしばらくの間の、結婚し、あちこちに引っ越して…とい行き当たりばったりのような行動を振り返った以下の文章を見てもらおう。

…計画と無計画がもつれた糸のように、どうなっているのか自分の現状もつかめないまま、実に無防備な行動だったようにも思えた。ぼくは論理的な考えもなく、ただ直感的な感触に従っただけだ。その後、今日に至るまでこのパターンはぼくの行動原理になっていると思う。こうした行動パターンと今の隠居生活はその根底で結合しているのかもしれない。(p147)

何歳で結婚して、何歳で家を買って、何歳でリタイアしよう、などと考えている人にはそもそも隠居という生き方は似合わないのかもしれないとすら思えてくる。自分の直感に従うものを、行き当たりばったりでもやりきって、その末に、もういろいろなものを捨ててもいいな、と思えることが創造的に死を前にする隠居になる条件なのかもしれない。誰のためにとか、義理を果たさなきゃとか、そういう気持ちが抜けないうちは隠居とは呼べないだろう。
孤独になれる時間を持てること、一人になってしたいことがあること、さらに、ある意味、がさつに自分の直感に従うことができる癖をつけること。全ての人がそこまでしてなりたいかは別として、少なくとも僕はこうした、働き盛りのときから死を見据え、人生で何を結局したいのかを考えるような生き方はいいなと思う。
さて、これを読む人はどう思うだろう。ずいぶん先のことのように見える隠居生活について、少しでも考えてみたい人には非常に有益な時間を与えてくれるだろう。