城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書)」

前著「若者はなぜ3年で辞めるのか?」が、世代間格差と若者の絶望感について述べて話題になった著者の第二段。さまざまな若者に話を聞き、その実例をもとに、その後の状況もまじえて、前著でも述べていたテーマにより深く迫る。帯に『もっとワガママに生きろ!』と書いてあるように、若者が声をあげてどんどん主張すべきと言うのが本著のメインテーマである。
ワーキングプアと呼ばれ、働けど働けど正社員にもなれず、楽にならない人びとがいる一方で、正社員として働く人々は「人が足りない」と忙しく残業。人が足りないくらいならば、フリーターや女性など、働いてもらう人材を多様化し、有効に仕事をしてもらえばいい。給料は仕事に応じて払う職務給とする…。こうした著者の提案と、なぜ簡単そうに見えるこれらの施策を企業が取れないのか、という疑問はこの本でもまた繰り返され、解決はなかなか見えそうにない。
しかし、リクルートが学歴、前職、年齢性別などを一切不問にした採用システムを取り入れたという話など、少しずつ、まっとうな方向に舵を切ろうとする会社が増えてきている例も取り上げられている。そうした制度によって採用された多様性のある人材が力を発揮することで、一斉採用年功序列、正社員重視の企業風土が変わっていくかもしれないと感じた。
一方で、世代間格差について述べられ、特に「ワリを食っている20代から30代が意見を集約し議論していくべきだ」、と書かれているのを読みながら、それも難しいだろうなという思いが消えない。というのも、その世代の一員としての実感では、そうした、世代的に上に頭を抑えられ苦しい年代だ、とされる20から30代の中でも、既に実際の、もしくは考え方的な格差が存在していると思うからだ。若者の中でも、うまく親と同じように正社員になれ、それなりにいいラインに乗れた人は、押さえつけられている上を見て若干のいらだちを感じながらも、自分の境遇を当たり前と考え、同じ年代にそれより下がいるということが想像から抜け落ちてきてしまう。年功序列に息苦しさを覚えつつも、ボーナスがもらえ、車と家を買えて、子どもを二人大学に行かせられる。そんな親の世代の当たり前を当たり前と思ってそれを求めてしまう。正社員になれないような、経済的な価値観が異なる人との付き合いは減る。そういった、正社員と非正規雇用の人の格差が存在する状況を『確かに問題ですよね』などといいながら、実際は自分と、価値観の合う友人あたりで幸せにやっていくことで頭がいっぱいなのだ。一方では、同じ年でも非正規雇用にとどまり、結婚や子どもを産むなど考えられない人もいる。世代でくくるのもいいが、こうした、明らかな世代内の格差も存在するなかで、ともに上の世代と議論していこうという空気をつくっていくのは案外困難なことではあるまいか。すでに、若者の中にも既得権益を守ろうとする動き、気持ち、心の構えがあるように思えてならないのだ。
自分が良い待遇を得られたものは、自分が少しそこから降りてでも、自分に近い人、後輩を自分と同じ場所にまで引っ張ってくる気持ちがあるべきだと思う。自分より下の年齢のものは、自分と同じ年齢になったときには自分よりより良いポジションを得られるべきだ、くらいに思ってもいいのではと考えるのはやはり甘いだろうか。世代間の格差の問題に比べれば些細なことなのかもしれないが、世代間格差を告発する側にいる若者が、すでに、自分の世代の少しワリを食っている仲間や、下の世代を引き上げようとする気持ちなど持とうとはしていないように思える。
あとがきで、『若者はワガママになるべきなのだ(p235)』と書いているのには賛成だが、それは、『上の世代、自分より偉いものに』であって、『自分が上になり、偉くなったら自分の分け前を減らす』意識が前提だ。それを先に意識すればこそ、ワガママの意味が出てくると思うのだ。
こういうことを書くと、すぐに偉そうに、と言われる時代だが、少しでもこうした理想論とも思えるようなことを抱えていないと、結局自分さえよければ、と上に立ったものが逃げ切ろうとする構図は変わらない。ワガママにならねばやられてしまうのは確かかもしれないし、もちろんサバイバルすることが第一かもしれないが、ずっとワガママでいいとは思わない。どうにか自分なりのポジションを確保できた際に、ワガママでなくても生きられるような世の中に自分の周りからほんの少し変えようとする気持ちを強く持っていたい。それは、成功してから持てる心構えではないような気がするし、そうした気持ちがないと、結局また次世代に同じ格差のツケを払わせることにならないだろうか。